1900年代、日本は日露戦争の勝利に沸いていた。
当時のインドは、イギリスの植民地であった。このころから、インドは自治を求めるようになった。そのきっかけは、日露戦争とベンガル分割令であった。
前回の復習 10年代のインド
20世紀前半のインドは3つの団体の関係を見ていくとこでわかりやすくなる。1つ目は、宗主国であるイギリスである。2つ目は、ガンディら国民会議派である。彼らの大部分はヒンドゥー教徒である。3つ目は、パキスタンの前身である全インド=ムスリム連盟である。イスラム教徒はインドにおいては少数派である。そのため、巧みな政治力で生き延びる必要があった。
10年代のインドは、ベンガル分割令をきっかけに国民会議派は自治権拡大に向かっていった。イギリスも、ヨーロッパで一触即発の状態でインドとことを構えたくないところである。そのため、イギリス本国もインドの自治権拡大を進めていった。
今回は、ベンガル分割令と全インド=ムスリム連盟の成立過程を見ていくことになる。
ヨーロッパの情勢 日露戦争終結で英露が急接近
当時、日露戦争でロシアが日本に敗れた。これにより、ユーラシア大陸全体で行われていたイギリスとロシアの対立(グレートゲーム)が終結。これにより、栄光の孤立を保っていたイギリスとフランス・ロシア陣営が急接近。フランス陣営(三国協商)とドイツ陣営(三国同盟)の対立となった。
当時のイギリスの情勢はどのようなものだったのだろうか。1899年に南ア戦争が勃発。そのため、インドを含むほかの植民地に軍隊を送る余裕はなかった。日英同盟が結ばれたのもこの時期である。
ベンガル分割令と全インド=ムスリム連盟の成立
05年 ベンガル分割令
当時のイギリスの拠点であるベンガル地方をイスラム教徒の多い東ベンガルとヒンドゥー教徒の多い西ベンガルに分割した。
これにはイギリスがインドでは少数派のイスラム教徒を味方につけたい意図があった。また、このころ、イギリスはイスラム教圏の植民地が多くあった。そのため、イスラム教徒の反感を買いたくないという意図があったかもしれない。当時、エジプトの植民地化を進めていた。また、カジャール朝ペルシア(イラン)から石油の採掘権の得たのもこのころである。
ベンガル地方
ベンガル地方は、農業生産性が高い豊かな地域である。16世紀、インド帝国の前身である東インド会社が、ブラッシーの戦いでベンガル太守軍・フランス連合軍に勝利。この戦いで東インド会社はベンガル州の徴税権を得た。そのため、ベンガルの首都カルカッタがイギリスの拠点となった。
06年 インド国民会議派 反英に
当初、国民会議派は親英的であった。しかし、ベンガル分割令によって反英的になった。06年のカルカッタ大会で、4つの反英運動を採択した。それは以下のとおりである。
当時のアジア諸国は、日露戦争でアジアの日本が大国ロシアに勝利したことでアジア各国で独立運動が活発していた頃であった。インド国民会議派も日露戦争の影響を受けていた。
06年 パキスタンの前身、全インド=ムスリム連盟 発足
国民会議派の反英運動が活発化すると、イスラム教徒は脅威を感じた。少数派の
イスラム教徒が多数派のヒンドゥー教徒に迫害を受けるのではないかということである。そのため、全インド=イスラム連盟は親英的であった。
これにより、20世紀前半のインドの主要登場人物であるイギリス本国、国民会議派、全インド=ムスリム連盟がそろった。
11年 ベンガル分割令撤回
11年、イギリスはベンガル分割令を撤回した。これにより、国民会議派とイギリスの関係は改善された。一方で、全インド=ムスリム連盟は反英的になった。
次回予告
イギリスと国民会議派の関係は
イギリスはどのようにインド統治を進めたのか
「1890年代のインド イギリス領インド 」
お楽しみに
このころ日本は
このころのヨーロッパは
このころの中国は