1990年代の清王朝はすでに末期に入っていた。義和団事件で半植民地化から脱しようとしたが失敗。首都北京に各国軍隊が駐屯するようになる。日露戦争が始まるが、清王朝は中立を保つ。政治面では、1890年代にとん挫した立憲君主制へ移行を進める。一方で孫文ら加久見い勢力が台頭。そのような中で、光緒帝、西太后、李鴻章らが死去。ラストエンペラー溥儀が即位。漢人官僚では袁世凱が勢力を握る。
1900年ごろの中国は、立憲君主制を目指した光緒帝ら新法派は発言力がなく、西太后ら保守勢力が権力を握っていた。01年に太平天国の乱や日清戦争で活躍した李鴻章が死去。袁世凱が台頭してくる。また、日清戦争の敗北によって、中国大陸は半植民地化されていた。
1900年、ドイツ勢力圏の山東半島で武装集団である義和団が蜂起。彼らは、清王朝ではなく、列強(ヨーロッパ諸国)に矛先を向けていて、列強が作った教会や鉄道の破壊を繰り返した。西太后ら清王朝は、義和団を使って列強を駆逐しようとし、列強各国に宣戦布告した。これに対し、列強は連合軍を派遣。義和団を鎮圧した。また、この事件により、清王朝は賠償金と北京に軍隊の駐屯を認めた。(北京議定書)
1904年、朝鮮半島をめぐり、日本とロシアで日露戦争が行われる。当時、日本はイギリスとの日英同盟を締結していた。一方、ロシアは、フランスの資本でシベリア鉄道の建設を進めていた。この戦争に対し、清王朝は中立の立場をとった。ロシアで血の日曜日事件が起こると、アメリカの仲介で日本優位の状況で停戦した。ロシアは、この敗戦により、遼東半島や南満州から撤退。東アジアルートをあきらめ、黒海・地中海ルートを確保するため、バルカン半島に注力するようになる。一方、日本は1910年日韓併合を行う。華北に勢力を持つのは、山東半島を勢力圏とするドイツと朝鮮・南満州を勢力圏とする日本、そして首都北京を中心とした清王朝になる。ロシアの矛先がバルカンに向かうことで、露仏同盟の仮想敵国はイギリスから、急成長するドイツに変った。これにより、イギリス・フランス・ロシアによる三国協商が完成し、第一次世界大戦の対立構図が完成する。
一方、清王朝は義和団事件で西太后ら保守派の発言力が弱まり、光緒帝ら、新法派が再度台頭する。そのため、日露戦争には中立の立場をとり参戦せず、政治改革に取り組んだ。1890年代の日本と同じ、立憲君主制改革である。すなわち、選挙を行い、国会を開くとともに、憲法を制定し皇帝の権限を法で制約することであった。これを実現するため、6世紀の隋の時代から行われていた役人採用試験「科挙」を廃止した。08年、光緒帝、西太后が死去。
一方、革命勢力である孫文は、日露戦争の勝利で沸く1905年の東京で中国同盟会を結成する。
そのころ日本は