1960年代、日本は高度成長期を迎え、アジア初の東京オリンピックを開催した。
このころ、ソ連はフルシチョフ書記長が指導していた。冷戦は過激さを増していた。そのような中起きたのがキューバ危機である。これにより冷戦は沈静化(雪解け)に向かった。
しかし、63年にソ連で大凶作が発生。フルシチョフ書記長は退陣。
ブレジネフ書記長が就任すると、チェコスロヴァキアで民主化運動(プラハの春)が始まる。ブレジネフ書記長は軍事力を用いてこれを鎮圧した。
フルシチョフ書記長と平和外交
61年ベルリンの壁建設
61年 アメリカ、民主党ケネディ大統領就任
同年、オーストリアで米ソ首脳会談
西ベルリンのアメリカなどの軍隊の撤兵交渉 → 決裂
61年8月 東ドイツ政府がベルリンの壁を建設
→ 53年06月のベルリン暴動がきっかけ
→ 89年の東欧革命時に崩壊
キューバ危機
59年 キューバ革命
中米キューバで社会主義革命
指導者、カストロ議長
アメリカ、ケネディ大統領
CIAを使い、反革命派を亡命し革命政府を転覆させようとするが失敗
キューバ産砂糖の輸入規制
62年 ソ連、キューバにミサイル基地を建設
62年10月14日 アメリカ、ソ連のミサイル基地建設を発見
→ 完成するとアメリカ本土に核攻撃が可能
→ アメリカ、ソ連から核が持ち込まれないようにキューバを海上封鎖
62年10月26日 フルシチョフ書記長、ミサイル基地撤去を決定
→ アメリカがキューバに武力介入しないことを条件に
63年 部分的核実験停止条約
中国、フランスが不参加
フランス、60年に核実験に成功、ド・ゴール外交で独自路線
中国、64年に核実験に成功、中ソ論争を展開
→ 軍縮の流れへ
63年 大凶作
フルシチョフ書記長は、農業政策に失敗。63年に大凶作がおこる。これによりフルシチョフ書記長は退陣に追い込まれる。
食糧生産拡大を進めるも失敗 → 砂漠化
穀物輸入国になる
フランスのド・ゴール外交
58年、フランスは第五共和制になり、ド・ゴール大統領が就任。ド・ゴール大統領はイギリス・フランスと距離を多く外交政策をとった。ソ連に対しても独自外交を展開した。
60年 アフリカの年
63年02月 仏ソ通商条約
65年 仏ソ原子力平和利用協定
64年 ブレジネフ書記長 強いソ連を
フルシチョフ書記長、失政により退陣
食糧不足
西側諸国に寛容な政策で軍部の批判を浴びる
65年 ベトナム戦争
65年、アメリカ、ジョンソン民主党大統領を北爆
一方、ソ連は、ホー=チ=ミン政権を支援
制限主権論とプラハの春
制限主権論とは
各国の利益よりも社会主義国全体の利益を優先すべし
→ ソ連は、武力を使ってでも社会主義国を従わせる。
68年08月 チェコスロヴァキア、プラハの春
(要因)スターリン批判、経済の停滞
68年春、改革派ドプチェク書記長が就任
検閲制度の廃止など自由化政策を進める。
68年8月、ブレジネフ書記長はワルシャワ条約機構を使い
チェコスロヴァキアへ武力介入。
この時の根拠が制限主権論であった。
69年 中ソ国境紛争
スターリン批判で個人崇拝を否定、制限主権論で各国の主権を制限。
一方、中国は、60年代後半から文化大革命を進め毛沢東への個人崇拝を進めていた。
そのため、ソ連と中国は対立関係にあった。
64年、中国は核実験に成功 → 核戦争の危機
そのような中、69年 中ソは国境問題で武力衝突が発生した。
これにより、中ソの関係は悪化、中国(毛沢東)は、ベトナム戦争で疲弊していたアメリカに急接近した。70年代の米中国交正常化に向かっていく。
70年代のデタント(米ソ軍縮交渉)へ
ソ連は、食糧難、中ソ対立、プラハの春などの東欧民主化運動により疲弊していた。
一方、アメリカもベトナム戦争で厭戦ムードが高まっていた。
そしてなにより、キューバ危機で核戦争の怖さも思い知った。
次回予告
「1950年代のロシア ソビエト連邦 フルシチョフ書記長 スターリンの死」
このころ日本は
ソ連に急接近したフランスは
核兵器をもち、国境紛争が起きた中国は