11世紀のペルシア セルジューク朝 スンナ派の救世主、セルジューク朝トルコ
11世紀、日本は平安時代後期。10円玉で有名な宇治の平等院鳳凰堂ができたのもこの時代。
そのころ、ペルシアは西側では、シーア派ペルシア人ブワイフ朝が支配していた。
一方、東部では2つのトルコ人国家が成立していた。
このトルコ人国家からセルジューク朝トルコが独立。オリエント世界を再び統一する。
11世紀初頭のペルシアの状況
西に、ペルシア系ブワイフ朝 内紛で衰退傾向
ペルシア人国家で、都をメソポタミア(イラク)のバグダードに置く
イスラム教穏健シーア派の十二イマーム派を信仰
→ 穏健派のため、スンニ派のアッバース朝は存続させた
しかし、スンニ派のアッバース朝のカリフはこれをこころよく思っていない
隙あれば、ブワイフ朝を滅ぼしたい。
現在、内紛で衰退傾向
北東部に、トルコ系カラ=ハン朝 内紛で衰退傾向
中央アジア出身のトルコ人国家
建国後に、イスラム教に改宗
こちらも、内紛で衰退傾向
南東部に、トルコ系カズナ朝 マフムードの全盛期
マムルーク(トルコ人軍人奴隷)が建国した国
アフガンに拠点を置く
ブワイフ朝、カラ=ハン朝が衰退した結果、全盛期を迎える。
この時代の国王はマフムード
この時期、分裂状態のインドにたびたび侵攻した。
セルジューク族もここに仕えていた。
トゥグルク=ベル、セルジューク朝トルコを建国
30年 カズナ朝、マフムード没
カズナ朝の衰退
38年 セルジューク朝、ニーシャープール入城(ペルシア北東部)
ホラーサーン地方(ペルシア東北部)を統治
→ セルジューク朝の成立
42年 セルジューク朝、中央アジア西部を占領(のちのホラズム)
55年 セルジューク朝、バグダード入城
シーア派ブワイフ朝を滅ぼす。
→ バグダードをシーア派から取り戻したスンナ派の英雄
アッバース朝からスルタンの称号
カリフ(日本の鎌倉時代でいう天皇) → 宗教的権威
アッバース朝が保持
イスラム教のトップ
← スンナ派はこれを容認するが
シーア派にはこの概念はない
スルタン(日本の鎌倉時代でいう将軍)→ 事実上統治者
セルジューク朝が担う
軍事・行政を担当。
トルコ軍人+ペルシア人官僚 → 公用語はペルシア語
ブワイフ朝のイクター制(イスラム版封建制)を継承
ライバル エジプト ファーティマ朝
ペルシアにシーア派過激派イスマイール派の布教
アルプ=アルスラン ビザンツ帝国へ侵攻
63年 初代スルタン、トゥグルク=ベムが亡くなる。
内政を、ニザームル宰相に任せる
東方、カラ=ハン朝、カズナ朝と和睦
西方へ侵攻に集中
ファーティマ朝エジプト(シーア派)
ビザンツ帝国(キリスト教)
ビザンツ皇帝を捕虜にする。
→ 96年第一回十字軍につながる
マリク=シャー セルジューク朝トルコの全盛期
72年 カラ=ハン国へ侵攻中にアルプ=アルスラン没
マリク=シャー即位(セルジューク朝)
この時、セルジューク朝はこの時全盛期を迎える。
地中海沿岸(シリア)・小アジア(トルコ)~メソポタミア(イラク)
~ペルシア(イラン)~中央アジアの大帝国になっていた。
中央アジア、カラ=ハン朝 への侵攻
ファティーマ朝エジプト パレスチナをめぐる戦い
イラン=イスラム文化の保護
→ スンニ派イスラム教復興(シーア派から取り戻す)が目的
メソポタミア(イラン)・ペルシア(イラク)の各地に
ニザーミーヤ学院を建設。
77年 ホラズム、セルジューク朝トルコから独立
東西交易で繁栄
13世紀初頭、チンギス=ハンの侵攻で周辺国が衰退することで最盛期を迎えるが、その後、チンギス=ハンに滅ぼされる。
92年 セルジューク朝、マリクシャー没
後継者問題で分裂、衰退へ向かう。
この分裂で登場したのが、小アジア(トルコ)のルーム=セルジュークである。
11世紀末のペルシアの状況
中央アジア → イスラム教国カラ=ハン朝
ペルシア西南部 → イスラム教国ホラズム
パキスタン(ペルシアの東南)→ イスラム教国カズナ朝
次回予告
このころ日本は
このころ、ヨーロッパは
このころ、中国は