1910年代のペルシア カジャール朝 第一次世界大戦とイギリスロシアの分割統治
1910年代、世界は第一次世界大戦の真っただ中にあった。日本は、大戦景気を享受し、世界のリーダーの仲間入りを果たした。私はこの時が日本の全盛期と考える。
イランも、第一次世界大戦の影響を受けていた。
第一次世界大戦前の状況
イギリス VS ドイツ
1907年に英露協商を締結。これにより、18世紀にわたって行われたグレートゲームはいったん終止符が打たれた。世界は、イギリス陣営 VS ドイツ陣営に分かれた。イギリス陣営は、フランス、ロシア、日本などである。一方、ドイツ陣営は、イタリア、オーストリア、オスマン帝国などである。
カジャール朝の状況は
カジャール朝ペルシアは、イギリスとロシアによって半植民地化されていた。東には、大英帝国領インドが、北にはロシア帝国があった。一方、西のイラクはドイツ陣営のオスマン帝国の支配下にあった。
1909年、カジャール朝では、反議会派皇帝が亡命。第二立憲制に入った。
第一次世界大戦でオスマン帝国軍が侵攻
14年6月、第一次世界大戦が勃発。ドイツ陣営のオスマン帝国軍はカジャール朝ペルシアへ侵攻した。これにより、カジャール朝はこれにより衰退に拍車がかかった
これに対し、イギリスは3枚舌外交を行った。アラブ人、ユダヤ人、協商国のフランス・ロシアである。15年10月、オスマン帝国の支配下のアラブ人ハーシム家とフセイン=マクマホン協定を締結。ハーシム家は、この協定の基づき反乱を引き起こす。18年シリアのダマスカスを中心にヒジャーズ王国を建国した。16年05月、イギリス・フランス・ロシアでサイクス=ピコ協定を締結。これにより、イギリスはイラクとヨルダン、フランスはシリア、ロシアはカフカス地方周辺を分割した。パレスチナ(イスラエル)は国際共同管理とした。17年11月、イギリスはユダヤマネー獲得を求めて、バルフォア宣言を発表。イギリスは、ユダヤ系大資本家ロスチャイルド家から資金提供を受ける代わりにイスラエルの建国を約束した。
17年 ロシア革命 干渉戦争の前線基地としてのペルシア
17年3月、ロシアで二月革命が発生。ロシア皇帝が処刑。共和制へ移行。このあと、資本主義勢力と社会主義勢力が対立。17年11月、十月革命が発生。世界初の社会主義国ソ連が成立した。しかし、これに対しイギリスなどの資本主義国が反発。イギリスは、カジャール朝ペルシアを前線基地として、ソ連内の資本主義勢力を支援した。一方で、カジャール朝の権威は失墜。地方に独自政権が樹立。ペルシアは無政府状態になった。
次回予告
「1900年代のイラン 」
このころの日本は
このころのヨーロッパは
このころの中国は