1790年代のフランス 5分でわかるフランス革命
フランス革命は、1789年7月14日のパリ市民がバスティーユ監獄を襲ったことから始まった。当初、フランス革命は、貴族への課税を求める貴族と農民の争いであった。革命は、瞬く間に加速した。ラ=ファイエットは人権宣言で所有権を認めた。ジロンド派は国王を処刑し、共和制へ移行した。そして、ロベスピエールは、貴族から土地を没収し農民に配った。しかし、過度な革命は、国民に受け入れられず、ナポレオンの登場で革命は終結した。
フランス革命の流れ
- 7月14日バスティーユ監獄襲撃
- ラ=ファイエットら自由主義貴族らの立憲君主制。憲法制定と人権宣言
- 共和政の始まり。ジロンド派による国王の処刑
- フランスの北朝鮮化。ロベスピエールの恐怖政治
- 革命はこりごり、穏健共和制とナポレオンの台頭
フランス革命の登場人物
国王
宮廷費、戦費の増大で財政難
増税して、財政再建をしたい。とくに、貴族に課税をしたい。
貴族
農民からの地代で生活、すべての重要官職をにぎる、納税義務なし
このころ、貴族の中でも貧富の差が拡大していた。
現状を維持するとともに、イギリスのように議会と憲法で国王の権限を制限したい。
商人(ブルジョワ)
富を蓄えていたが、政治面では発言力は高くない。
政治面での発言力を得たい。→ 選挙権が欲しい
← 産業革命に成功した安いイギリス製工業品に関税をかけたい。
農民
貴族への地代の支払いと納税で苦しい。
自作農になって、貴族への地代の支払いをなくしたい。
パリ市民(サンキュロット)
生活が苦しい。
革命のはじまり、7月14日
89年、5月、国王ルイ16世は、貴族(特権身分)への課税をもとめて三部会(国会)をヴェルサイユで開催。反対する貴族(特権身分)と賛成派する商人(第三身分)らが対立。6月、賛成派が国民議会を作り憲法制定するまで解散しないと宣言した。これが「球戯場の誓い」である。国王と貴族は、武力を持って弾圧。7月14日、パリ市民はパリのバスティーユ牢獄を攻撃。フランス革命が始まった。
ちなみに、三部会とは、14世紀(1402年)、フィリップ4世が教会に課税するために開催した議会。教会への課税が決議され、アナーニ事件につながる。しかし、17世紀(1615年)、ルイ13世の宰相がリシュリューが絶対王政を確立するために停止した。
ラ=ファイエットら自由主義貴族による国民議会が人権宣言を採択
パリ市民の暴動は、全国に広まった。農民は貴族を襲うようになった。89年8月、自由主義的貴族により、農民向けの政策を打ち出した。自由主義的貴族は、比較的裕福な貴族で免税特権の維持よりも議会と憲法により権限の拡大を望んでいた貴族である。アメリカ独立戦争で活躍したラ=ファイエットなどがその代表である。領主裁判権の廃止や教会への納税義務である。ちなみに領主裁判権とは貴族領主が農民を裁く権利である。地代も有償で廃止したがとても農民が払える額ではなかった。また、89年8月、国民議会は人権宣言を採択した。人権宣言は、自由・平等・国民主権などが唱えられた。私有財産の不可侵がある。私有財産の不可侵とは、土地などの私有財産は国家などに没収されないということである。
89年10月、パリ市民は、ヴェルサイユ宮殿に向かった。これにより、王家と国民議会は、ヴェルサイユからパリへ移った。(ヴェルサイユ行進)ちなみにヴェルサイユは17世紀中ごろ、ルイ16世の親政(皇帝や王が自ら政治を取り仕切ること)期に作られた宮殿である。
立憲君主制 国王は支持を失い共和制へ
91年、6月国王一家はオーストリア(后マリーアントワネットの実家)へ亡命しようとして失敗。国王は支持を失う。8月、オーストリアはプロイセンとともにフランス国王の支援に宣戦布告。9月、国民議会は憲法を採択。一院制立憲君主制を定め、国民議会を解散した。なお、選挙権は財産で制限しているため、貴族と商人に限られた。
91年10月、憲法に基づいて選挙が行われ立法議会が開催された。議会は2つの派閥(政党のようなもの)が対立した。現行憲法維持したい立憲君主派と王権を停止して共和制へ移行したいジロンド派である。立憲君主派の主な支持層は貴族や軍隊で、ジロンド派の主な支持層は大商人であった。92年春にはジロンド派が政権を握る。ジロンド派はオーストリアに宣戦布告した。軍隊は王党派のため戦意にかけ、敗戦を繰り返していた。
これに対し、農民とパリ市民は義勇軍(ボランティアの軍隊) が結成された。この時、義勇軍が歌っていた軍歌が今のフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」である。92年8月、義勇軍とパリ市民は、パリの宮殿を襲い王権を停止した。
ジロンド派による第一共和制、普通選挙、国王の処刑
92年9月、男子普通選挙を行い国民公会が成立した。選挙権は農民やパリ市民にも拡大した。その理由は、義勇軍の活躍である。このころ、局地戦で義勇軍がプロイセンを撃退している。国民公会は王政を廃止し、共和制(国王のいない政治スタイル)を樹立した。
国民公会では、急速な共和制を望むジャコバン派が勢力を増した。93年1月元国王ルイ16世は処刑された。イギリス首相ピットは、第1回対仏大同盟を結成した。また、国内でも王党派の反乱も起きている。
ジャコバン派ロベスピエールのギロチン政治とフランスの北朝鮮化
93年、ジャコバン派はジロンド派を追放。ロベスピエールを中心としたジャコバン派政権を樹立した。パリ市民や農民向けの政治を行った。端的に言えば、旧支配層や金持ちをギロチンにかけて、その財産を国民に分配する政策である。地代の無償廃止、価格統制などである。反対派を次々処刑する恐怖政治を行った。いわゆるギロチン政治である。徴兵制の導入や反キリスト教政策を進めた。語弊を恐れずに言うとフランスが北朝鮮のようになった。フランク革命の大きな政策はほぼこの時期に行われた。
しかし、第1回対仏大同盟の脅威がなくなると、ジャコバン派政権は農民やパリ市民の支持を失っていた。このころ、農民は、地代の無償廃止によって地主に変っていた。パリ市民も価格統制令によって生活が安定していた。そのため、これ以上の革命の進行を望まなかった。94年7月、テルミドール9日のクーデターでロベスピエールは処刑された。
革命はこりごり。穏健共和制とナポレオン
95年の憲法改正で、普通選挙から制限選挙に変更。農民やパリ市民の選挙権は亡くなった。これにより、総裁政府が成立した。総裁政府は、王党派とジャコバン派の残党により社会不安が続いていた。
この中で台頭してきたのが、軍人のナポレオンである。96年ナポレオンはイタリアでオーストリア軍を破る。96年には、イギリスのインドルートを断絶するためオスマン帝国のエジプトに遠征した。この遠征時にロゼッタストーンが発見されている。99年、イギリスはエジプト遠征に対抗して第2回対仏大同盟を結成。99年11月、ナポレオンはエジプトから緊急帰国し、ブリュメール18日のクーデターで、ナポレオン独裁政権を開き、10年にわたったフランス革命は終結した。
ちなみに、99年に距離の単位がメートルになった。
このころの日本は
このころの中国は