10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

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17世紀前半のイギリス スチュアート朝とイギリス革命前半戦

 17世紀前半、日本では徳川家康が戦国時代を終わらせ江戸幕府を開いたころである。

 このころ、イギリスでは、エリザベス1世の黄金期が終わり、スチュアート朝が成立した。ここから国王と議会の対立が始まる。この対立はピューリタン革命(イギリス革命)にまで発展した。

 

 

前回までの復習 17世紀後半のイングランド

 17世紀後半のイングランドは、ピューリタン革命(イギリス革命)で成立した。クロムウェルの独裁政治に始まる。クロムウェルの独裁を嫌った勢力によって王政復古が起こる。それを裏で支援したのが、フランス=ブルボン朝ルイ14世である。イングランド王はルイ14世の影響でカトリック教徒に寛容な政策をとり始める。これに対し、イングランド議会が反発。名誉革命(イギリス革命)に発展する。名誉革命によってイングランド王は亡命。オランダから王を迎える。このころ、フランスとイングランドは海外植民地で勢力争いを行うようになる。18世紀のイギリスとフランスの対立につながる。

 今回は、ピューリタン革命と対立するイングランド議会とスチュアート朝を見ていきます。


エリザベス女王の時代

 16世紀後半は、エリザベス女王の黄金期であった。エリザベス女王自体は政治にあまり関与せず、議会に政治を任せた。その中心は16世紀に台頭してきた新興地主層(ジェントリー)である。

イギリス東インド会社徳川家康

 アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊を破るとイングランドにも余裕が出てきた。彼らは、スペインが支配していた海外植民地への侵攻を開始した。第二次大航海時代である。その主力を握ったのが、イギリスとオランダ、そして遅れて登場するフランスである。
 スペイン・ポルトガルの時代は重金主義の時代であった。先住民を征服して彼らが持っていた金銀財宝を持ち帰って国を富ませようという考え方である。一方で、オランダ・イギリスは新たな経済政策をとった。これが重商主義(貿易差額主義)である。これは、自国製品を高く売りつけ、他国の製品を安く買いたたくことで銀を集めようとした。 
 アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊イングランド海軍に敗れると、スペイン=ハプスブルグ家の勢力は急速に衰えた。イギリスとオランダはそれぞれ東インド会社を設立させた。東インド会社とは、国家から貿易独占権を与えられた貿易会社である。イングランドとオランダは、スペインに併合されたポルトガルが持つアジアの拠点を奪っていった。
 インドとオランダは、旧ポルトガルの拠点を奪いながら、東南アジア・中国に到達した。当時の中国は明王朝の末期。国を治める力はなかった。南シナ海東シナ海倭寇と呼ばれる海賊が多くいた。この時代の倭寇は、日本人だけでなく中国人なども参加した。倭寇の主な仕事は、密貿易であった。当時、アジア地域の交易は長江のみに限られていた。しかし、倭寇はこれを無視して交易を行った。スペインやポルトガルはこの交易圏に参加した。
 17世紀に入ると、この海域に秩序がもたらされた。徳川家康による朱印船貿易である。江戸幕府朱印船貿易でアジア各国と交易を行った。そのような中、オランダ人のヤンヨーステンとイングランド人のアダムス(三浦按針)が徳川家康の外交顧問になった。このことの徳川家康はフィリピンを占領下スペインをものすごく警戒していた。この時代のスペインは九州などのキリシタン大名と結び日本の植民地化を考えていたという説もある。 

 ちなみに、エリザベス女王は、徳川家康に大砲をプレゼントした。この大砲は、大阪冬の陣で使われ、豊臣政権を滅ぼすために使われた。

スチュアート朝成立

 エリザベス女王は生涯独身を貫いた。エリザベス女王はマリア様ではないので当然子供はいない。03年、エリザベス女王が亡くなると、イングランド王室と血縁関係にあるスコットランドの国王をイングランド王に迎えた。ジェームズ1世である。
 15世紀末、ヘンリ7世は、平和外交を行った。その関連で、スコットランド王室はヘンリ7世の娘を后に迎えていた。この流れで、スコットランド王室とイングランド王室は血縁関係にあった。
 ジェームズ1世の即位によって、イングランドスコットランドは同君連合となった。同君連合とは同じ王様を持つことで事実上の同盟関係が構築されるということである。ジェームズ1世から始まるインドランドの王朝をスチュアート朝という。このスチュアート朝は、アン女王が亡くなる18世紀初頭まで続く。スチュアート朝は14世紀にスコットランドで成立した王朝で、その語源はスコットランド語で宮宰を意味するスチュアートからとられた。

国王(ジェームズ1世) VS 議会(ジェントリー)

 エリザベス女王時代、議会は急速に発展していた。政治の実権はイングランド議会が握っていた。しかし、それはスコットランド王室には関係ないことであった。ジェームズ1世は王権神授説を主張。イングランド議会を6年半開かなかった。
 

大陸では、三十年戦争が勃発

 このころ、神聖ローマ帝国(ドイツ)では三十年戦争の内乱状態になった。オーストリアを中心としたカトリック教徒とザクセン公を中心としたプロテスタントルター派)の戦争である。プロテスタント側には、デンマークスウェーデン、フランスが援軍を出した。当時、東欧の大国はロシアではなくスウェーデンであった。

 ジェームズ1世の娘は、ドイツの諸侯に嫁いでいました。これが後のハノーヴァー朝につながる。ジェームズ1世は、娘を守るためプロテスタント側で出兵しようとした。しかし、イングランド議会はこれを認めなかった。そのためイングランド三十年戦争に直接参戦せず、資金提供と援軍の提供にとどまった。

 このころ、カトリック教徒による国会議事堂爆破未遂事件が勃発した。三十年戦争とこの事件によって、イングランド国民は、カトリックを嫌うようになった。

アジアではアンボイナ事件

  三十年戦争が勃発すると、スペイン・ポルトガルの勢力は徐々に衰退していった。とのため、イギリス・オランダはアジアとの交易を独占するようになった。東南アジアのモルッカ諸島をめぐり、オランダ東インド会社とイギリス東インド会社が戦闘状態になった。

 イギリス東インド会社はこの戦いに敗北。東アジア・東南アジアの交易から撤退した。イギリス東インド会社はインドでの交易に注力するようになった。一方、オランダは東南アジア、東アジアの交易を独占した。台湾にゼーランディア城を建設。日本では、島原の乱の鎮圧に協力。徳川家光の信頼を得、鎖国下の日本において、長崎に出島に商館を置くことができた。

ジェームズ1世に期待を裏切られたピューリタン

 ジェームズ1世の母、スチュアート=メアリはカトリックからピューリタンへ改宗した。当時スコットランドと関係の深いフランスでは、16世紀末にナントの王令が出され、カルヴァン派(フランスではユグノー、イギリスではピューリタン)が容認されたころである。

 しかし、ジェームズ1世は、エリザベス女王と同じイギリス国教会を選択した。また、イギリス国教会の名のもとにピューリタンの迫害を行った。迫害されたピューリタンの中には新大陸へ亡命したものもいた。ピルグリムファーザーズである。

 なお、この頃、英語に翻訳された聖書が広まった。これにより、近代英語が普及した。

 イギリス革命前半戦 ピューリタン革命

 ジェームズ1世が亡くなり、息子のチャールズ1世が即位すると、国王と議会の対立は表面化する。ピューリタン革命である。

イングランド議会が国王チャールズ1世に権利の請願

 ジェームズ1世が亡くなると、チャールズ1世が即位した。チャールズ1世は、父ジェームズ1世以上に専制を敷いた。イングランド議会は、国王の権限を制限する「権利の請願」を決議した。しかし、チャールズ1世はこれを無視した。その後、11年間イングランド議会は開かれなかった。

スコットランドの反乱で国王と議会の対立は表面化

 チャールズ1世は、地元スコットランドでも、王建の濫用をしていた。ピューリタンの多いスコットランドに、イングランド国教会を強制しようとした。これにたいし、スコットランドピューリタンが反乱を起こした。

 チャールズ1世は、スコットランドの反乱鎮圧をイングランド議会に諮った。権利の請願決議以来の議会の再開であった。議会はここぞとばかりに王権を制限する法律を通そうとした。これにチャールズ1世は反発。議会を無視してスコットランドに軍を進めた。しかし、スコットランドに兵を進めた。

 チャールズ1世はこの戦いに敗北した。スコットランドから多額の賠償金の請求が行われた。そのため、賠償金支払いのために再び議会を開いた。賠償金問題があるため、今度ばかりはチャールズ1世も議会を無視することができなった。

トーリ党(王党派)とホイッグ党(議会派)

 イングランド議会は、チャールズ1世の不信任決議案を決議。わずか11票差で可決した。しかし、この法にしたがって国王は辞任する必要はない。反対したのは、特権階級のジェントリーや古くから続く貴族である。彼らはトーリ党と呼ばれた。一方で賛成に回ったのは、大部分のジェントリ(新興地主層)と商工業者であった。彼らはホイッグ党と呼ばれた。ホイッグ党員はピューリタンが多かった。

 チャールズ1世は、トーリ党と連帯した。ホイッグ党員の逮捕を行おうとした。当初は戦争経験に富んだ王党派が優位に展開した。

 しかし、クロムウェルが登場すると、議会派が息を吹き返した。チャールズ1世はフランスへ亡命。これにより、イギリス革命の一つピューリタン革命が終結した。

長老派と独立派

 チャールズ1世が亡命すると、ホイッグ党は2つのグループに分かれた。国王制度を残した立憲君主制をめざす長老派と国王の処刑を求める独立派である。

 独立派の中心人物がクロムウェルである。クロムウェルは議会から国王派はもとより、長老派も排除した。

 これにより、クロムウェルら独立派は議会を独占することができた。その後、クロムウェルイングランドを共和制を敷き、クロムウェルは初代首相となった。

この頃の日本は

 

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 このころのフランスは

 

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