15世紀の中国 明王朝 永楽帝と鄭和の大航海
15世紀、永楽帝が即位すると、対外遠征を行い領土を拡張した。明代の全盛期である。一方で、鄭和の大航海で多くの国に朝貢を促した。
15世紀後半、永楽帝がなくなると、北方では騎馬民族が侵攻。南では大規模な農民反乱がおこる。そのような中、上海周辺では工業化が進んだ。
日本は室町時代である。
14世紀末の永楽帝のクーデターは成功し、南京は陥落した。
永楽帝は南京に入らず、北京に遷都した。これ以後清の滅亡まで中国の首都は北京になる。彼は、周辺諸国の朝貢を受け、大きな富を得た。
また、イスラム教徒の鄭和の大航海が始まる。かれは、東南アジアに進出したイスラム教徒の支援を得て、イスラム圏となった東南アジアから東アフリカまでのインド洋周辺の各国に朝貢を促した。ちなみに鄭和の船団は16世紀に登場するポルトガル船に比べはるかに大きな船であった。足利義満もこの時代に朝貢を行った。
永楽帝は、領土も拡大した。王統の途絶えたモンゴル民族を制圧。後に清王朝を築く女真族を服属。東南アジアのベトナムの内乱に介入。ベトナムを再び支配した。
永楽帝は、首都北京で紫禁城の建造に着手。永楽大典、四書大全、五経大全を編纂させた。
1424年に永楽帝がなくなると幼少皇帝が続いた。鄭和の大航海はなくなり、朝貢も縮小された。その結果、南では、応仁の乱で室町幕府のコントロールが効かなくなった日本などの闇貿易が盛んになった。(後期倭寇)一方、北方では、明王朝の財政難から朝貢の回数が減少した。そのため、物資不足のため騎馬民族が華北に次々侵攻した。このころ活躍した騎馬民族はオイラトである。49年のオイラト遠征では、皇帝が捕虜になる大敗を喫した(土木の変)。東南アジアでは、明王朝の支配下にあったベトナムが28年独立し、黎朝が成立した。
政治面では、洪武帝、永楽帝の影響で豪族に対し皇帝の地位はかなり高まった。しかし、幼少皇帝が続いたため、このころになると皇帝の側近(宦官など)の発言力が高まった。48年、江南の福建省(台湾の対岸)で農民闘争(地主に対する小作料(農地のレンタル代金)減免を求めた闘争)がおこる。(鄧茂七の乱)。この反乱は数十万人規模に膨れ上がったが鎮圧された。この反乱により江南の地主層は武装化した。
江南(長江流域)は、日本などとの闇貿易で銀の流通が盛んになった。とくに、石見銀山などをもつ日本からは多くの銀が流入した。上海周辺の長江下流域は、工業化が進んだ。景徳鎮など陶磁器や綿織物、絹織物などの生産が盛んになった。日本の戦国大名は好んで「Made in 明王朝」を輸入した。そのためコメの生産拠点は、長江下流域から中流域にうつった。「湖広熟すれば天下たる」と呼ばれるようになる。(10世紀の「蘇湖熟すれば天下足る」)
そのころの日本は
その後の中国は