10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

14世紀のロシア キプチャクハン国とモスクワ大公国

 14世紀、日本は南北朝の動乱期である。このころ、世界は戦乱と黒死病などの疫病で暗黒な時代を迎えていた。

 そのころ、ロシアは、モスクワ大公国の時代である。モスクワ大公国は、モンゴル人国家キプチャクハン国に貢納を行っていた。

 

 

キプチャク=ハン国全盛期(ウズベク=ハン)

 13年、ウズベク=ハンが即位。キプチャク=ハン国の全盛期を迎える。このころの政治課題は、イル=ハン国との戦いである。キプチャク=ハン国もイスラム教徒支持を得るため、イスラム教へ改宗を行った。首都サライでは、イスラム教の施設を作った。また、ジェノヴァヴェネツィアとの交易も進めた。サライにはヨーロッパ式建築物も多数建築された。

 

イル=ハン国包囲網

 キプチャク=ハン国は、カフカス地方をめぐり、イル=ハン国と交戦状態にあった。そのため、エジプトのトルコ人国家マムルーク朝と同盟を締結した。

タタールのくびき

1283年、モスクワ大公国が成立。モスクワ大公国は、キプチャクハン国からロシアの支配権を認めてもらえる代わりに、毎年キプチャクハン国へ貢納を行った。

 

ウズベク=ハンの死

 42年、ウズベク=ハンはサライで亡くなる。59年には、バトゥの血統が途絶える。その後、国家的統合が亡くなる。

黒死病とキプチャクハン国の衰退

 14世紀半ば、バトゥの血統が途絶え、貴族同士の争いの時代を迎える。
 このころ、黒死病も流行。
 東西に大帝国が成立した。
 ポーランドリトアニア)とティムールである。

  これらの要因で、キプチャクハン国は衰退方向へ向かう。

このころの日本は

 

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 キプチャクハン国へ脅威をあたえたティムールとは

 

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