14世紀のロシア キプチャクハン国とモスクワ大公国
14世紀、日本は南北朝の動乱期である。このころ、世界は戦乱と黒死病などの疫病で暗黒な時代を迎えていた。
そのころ、ロシアは、モスクワ大公国の時代である。モスクワ大公国は、モンゴル人国家キプチャクハン国に貢納を行っていた。
キプチャク=ハン国全盛期(ウズベク=ハン)
13年、ウズベク=ハンが即位。キプチャク=ハン国の全盛期を迎える。このころの政治課題は、イル=ハン国との戦いである。キプチャク=ハン国もイスラム教徒支持を得るため、イスラム教へ改宗を行った。首都サライでは、イスラム教の施設を作った。また、ジェノヴァやヴェネツィアとの交易も進めた。サライにはヨーロッパ式建築物も多数建築された。
イル=ハン国包囲網
キプチャク=ハン国は、カフカス地方をめぐり、イル=ハン国と交戦状態にあった。そのため、エジプトのトルコ人国家マムルーク朝と同盟を締結した。
タタールのくびき
1283年、モスクワ大公国が成立。モスクワ大公国は、キプチャクハン国からロシアの支配権を認めてもらえる代わりに、毎年キプチャクハン国へ貢納を行った。
ウズベク=ハンの死
42年、ウズベク=ハンはサライで亡くなる。59年には、バトゥの血統が途絶える。その後、国家的統合が亡くなる。
黒死病とキプチャクハン国の衰退
14世紀半ば、バトゥの血統が途絶え、貴族同士の争いの時代を迎える。
このころ、黒死病も流行。
東西に大帝国が成立した。
ポーランド(リトアニア)とティムールである。
これらの要因で、キプチャクハン国は衰退方向へ向かう。
このころの日本は
キプチャクハン国へ脅威をあたえたティムールとは