10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1970年代のインド バングラデシュ独立戦争(第三次印パ戦争)

 1970年代、日本は高度成長期が終わり、低成長期に入った。このころ、学生運動が活発化していた。

 そのころ、インドは第3次印パ戦争を行った。国際的には孤立化し、その打開策として核保有国となった。

 内政では、「貧困の追放」を掲げたインディラ=ガンディ政権であった。しかし、徐々に国民の支持を失い政権交代が行われた。

 

 


第三次印パ戦争(バングラデシュ独立戦争

 71年03月、東パキスタン(のちのバングラディシュ)で独立を宣言。
 この地域は、同じイスラム教を信仰していたが、人種がパキスタン人ではなくベンガル人であり、言語も異なり、国土も分裂していた。
 パキスタン政府は、これに対し軍事弾圧を開始した。
 インド政府(インディラ=ガンディ)は、東パキスタンを軍事支援。第三次印パ戦争に発展した。

 アメリカはパキスタンを支援。中国もパキスタンを支持した。当時、中国は中ソ対立の影響で西側諸国との関係を強化していた。
 そのため、インディラ=ガンディはソ連に急接近。71年08月印ソ平和友好条約を締結。

 71年12月、インドの勝利により、バングラディシュは独立を達成した。ちなみに、バングラデシュは75年に軍事クーデターにより軍事独裁政権に移行する。

 

米中の脅威から逃れるため核保有国へ

 60年代、国境紛争で、中国と対立。印パ対立でアメリカからの経済制裁を受けるようになった。70年代になると、中ソ対立によって米中の関係が急速に改善。72年02月にはニクソン訪中が実現した。
 これにより、インドは国際的に孤立した。インディラ=ガンディは、第三次印パ戦争の最中、ソ連のブレジネフ書記長と印ソ平和友好条約を締結。74年05月には核実験に成功した。
 

国民会議派の長期政権の行き詰まり(インディラ=ガンディ) 

 インドは、国民会議派の長期政権が続いていた。
 経済面では、共産主義に近い計画経済を進めていた。71年の総選挙では、「貧困の追放」を掲げて勝利した。

開発独裁の行き詰まり

 60年代、アジア諸国では、政治運動や社会運動を抑圧しながら工業化を強行していく、開発独裁を進めていた。
 この政策により、経済は成長し、国民の生活レベルは向上。そのため、アジア諸国の国民は、独裁者を支持していたため、特に大きな問題は生じなかった。
 日本の高度成長期と自民党一党独裁もこの一例といえる。
 インドで、この自民党的立場にあったのが、国民会議派であった。
 70年代に入ると、世界的な低成長期に入る。アメリカがベトナム戦争の泥沼化でニクソンショックを起こす。また、73年のオイルショック第4次中東戦争)がそれに追い打ちをかけた。
 その結果、多国籍業はコスト削減のため、アジア諸国に工場を移した。そのため、韓国など開発独裁を進める国々は、経済成長を続けた。これらの国々は、NIES新興工業経済地域)と呼ばれた。
 しかし、インドは、工場移転による経済成長の恩恵を受けることができなかった。その理由は2つある。1つ目は、アメリカと政治的に対立していたこと。2つ目は、先進諸国と距離が離れていたことである。
 このため、インドでは、経済成長よりも長期政権による政治腐敗の面がクローズアップした。このため、国民会議派は大きく支持を失っていた。


77年ジャナタ党政権

  75年、71年総選挙での国民会議派の選挙違反で有罪判決
  これに対し、インディラ=ガンディは、反対勢力を一斉逮捕
  77年の選挙で国民会議派が大敗。ジャナタ党への政権交代が行われた。
  ジャナタ党はインディラ=ガンディを逮捕
  しかし、ジャナタ党は反インディラ=ガンディ以外政策的共通点がないため意見対立が生じ、2年で崩壊。
  80年総選挙では、ジャイナ党の混乱とインディラ=ガンディ逮捕に対する同情票で、国民会議派は政権を奪還する。

その他の南アジアの出来事

 72年、スリランカ憲法を制定。共和国して完全にイギリスから独立した。

このころ日本は

 

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 インドの敵中国は

 

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 インドを支援するソ連

 

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