1950年代のロシア ソビエト連邦 フルシチョフ書記長 朝鮮戦争とスターリン批判
1950年代、日本はサンフランシスコ講和条約で独立を回復した。自由民主党ができたのもこのころである。
そのころ、ソ連は冷戦の真っただ中にあった。しかし、53年スターリンが亡くなると冷戦は沈静化した。
しかし、フルシチョフ書記長のスターリン批判を受け、東欧諸国が反ソ暴動。ソ連は武力介入で鎮圧した。これにより、冷戦は新たな時代を迎えた。
冷戦第2ラウンド 朝鮮戦争
米ソ両国が核兵器を持つ状態での初の戦争
本気でぶつかれば世界は滅亡する。
核兵器の脅威は、広島・長崎の惨状で十二分に理解している。
50年02月 中ソ友好同盟相互援助条約
50年06月 朝鮮戦争
50年06月25日 北朝鮮軍が、韓国へ侵攻
中国、ソ連は、静観
50年06月28日 わずか3日で、ソウルを占領
北朝鮮は韓国の大部分を制圧
50年07月07日 国連安保理で国連軍派遣を決定
アメリカ(トルーマン大統領)
もし、否決されれば、単独で参戦予定
中国
当時、代表権は毛沢東になく、台湾の蒋介石が持っていた。
当然、賛成に回った。
ソ連(スターリン)
拒否権を行使しなかった。
50年09月15日 国連軍派遣
大部分は、アメリカ軍
総司令官、マッカーサー元帥
50年10月20日 国連軍(韓国)、ピョンヤン陥落
中国(毛沢東)は義勇軍を派兵
→ 正規軍をおくり米中戦争になるのを避ける。
51年04月 トルーマン大統領、マッカーサー元帥を解任
マッカーサー元帥が原爆使用を主張したため
トルーマン大統領は休戦を決意
スターリンの死で冷戦が終息
53年、冷戦の2人のリーダー、アメリカのトルーマン大統領、ソ連のスターリンがともに政治の舞台からいなくなった。これにより冷戦は和平モードになった。
なお、両国の関心事項は、ベルリン問題、ベトナム独立、そして朝鮮戦争であった。
また、中国・インドなど第三世界が台頭したのもこの時代である。その象徴がスエズ戦争(第二次中東戦争)である。軍事力で圧倒的に不利なエジプトが、国際世論の味方につけることでイギリス・フランスを撤兵させた。
53年01月 アメリカ、アイゼンハワー共和党大統領
第二次世界大戦でヨーロッパ戦線で活躍した英雄
53年07月 朝鮮戦争休戦協定
法律上は、現在も朝鮮戦争は続いている。
南北両代表とアメリカ、中国が参加
53年06月 ベルリン暴動
東ドイツ政府の労働ノルマ引き上げによる反発
→ 背景にスターリンの死による自由化路線
ソ連は、これに対し武力介入
一方、西側諸国は介入をしなかった。
54年07月 ジュネーブ休戦協定
インドシナ戦争(ベトナム独立戦争)停戦協定
米・ソ・英・仏とアジア諸国18か国が参加
56年07月に選挙を実施
アメリカ(アイゼンハワー大統領)はこれを拒否
選挙は実施されなかった
→ ベトナム戦争の要因になる。
第三世界の台頭
中華人民共和国が参加した初めての国際会議
中華人民共和国の周恩来、インドのネルー首相が参加
第三世界の台頭
54年06月 平和五原則
55年04月 バンドン会議
56年10月 スエズ戦争(第二次中東戦争)
英仏 VS エジプト(第三世界)
米ソはどちらも第三世界を敵に回したくないので中立を保った。
55年02月 フルシチョフ体制確立
マレンコフ失脚
55年05月 ユーゴスラヴィアと和解
55年07月 ジュネーブ4巨頭会談(米・ソ・英・仏)
議題:ベルリン問題 53年06月のベルリン暴動
背景:第三世界の台頭
55年09月 西ドイツと国交回復
56年02月 スターリン批判
スターリンの個人崇拝の否定
西側との平和共存路線
56年04月 コミンフォルム解散
反ソ暴動で冷戦は再び深刻化
56年、冷戦終結モードであった。しかし、東欧諸国の反ソ暴動に対し、ワルシャワ条約機構を使って武力鎮圧。再び東西冷戦は色濃くなった。また、ソ連は人工衛星の打ち上げ成功など科学技術力の差を西側諸国に見せつけた。
56年06月 ポーランド反ソ暴動
56年10月 ハンガリー反ソ暴動
ソ連軍、軍事介入/平和共存路線からの脱却
57年10月 ソ連、人工衛星打上成功
→ 宇宙開発競争でアメリカに一歩リード
→ アメリカにミサイル技術を見せつける
58年、西欧のEECの成功
→ 加盟国の分業による生産性向上
59年09月 ソ連、無人ロケットを月に到着
59年09月 キャンプ・デービッド会談(米ソ)
ソ連書記長、初の訪米
59年09月 月の裏側の撮影成功
61年04月 ソ連、ガガーリンが有人宇宙飛行に成功
「地球は青かった」
次回予告
「1940年代後半のロシア ソビエト連邦 スターリン 冷戦の始まり」
このころ日本は
ライバルのヨーロッパは
中ソ対立の始まる中国は