8世紀、日本は奈良時代で奈良に大仏が建立された。奈良時代の文化は国際色豊かでとくにペルシア(イラン)の文化を色濃く受けている。
そのペルシアは、アラブ帝国ウマイヤ朝の支配したにあった。当時のヨーロッパはウマイヤ朝の脅威にさらされていた。
一方で、フランク王国メロヴィング朝は、分割相続で王権は衰退していた。そのたま、宮宰のカロリング家がカロリング朝を開いた。そして、カール大帝が戴冠をうける。
宮宰カール=マルテル、アラブ人を撃退。
フランク王国は、メロヴィング朝の時代であった。しかし、分割相続により王権が弱体化していた。そのような中、イスラム教の侵攻が始まった。そこで活躍したのは、国王ではなく、宮宰カール=マルテルであった。
11年、西隣のスペイン(西ゴート王国)がイスラム教シリア系ウマイヤ朝に滅ぼされる。
14年、カール=マルテル、フランク王国宮宰に就任
17年、ウマイヤ朝、ビザンツ帝国の首都コンスタンチノーブルを包囲
20年、ウマイヤ朝、フランスへ侵入
26年、聖像禁止令問題でローマ=カトリックとコンスタンチノーブル教会(〇〇正教会)が対立
32年、フランク王国、トゥール・ポワティエ間の戦いで、ウマイヤ朝を撃退。
ピピン、イタリア最大の都市ラヴェンナをローマ教皇に寄進
イスラム勢力の拡大は、ビザンツ帝国を弱体化させていた。そこで台頭したのがランゴバルド王国である。ランゴバルド王国はイタリア統一政策を進めた。これによりランゴバルド王国とローマ教皇が対立。新たなスポンサーとして登場したのがフランク王国国王ピピンであった。
50年、アラブでアッバース革命 → アラブ軍のヨーロッパ侵攻が止まる。
51年、宮宰ピピン、フランク王に即位。カロリング朝を立てる。
51年、北イタリアのランゴバルド王国、ビザンツ帝国をイタリアから追放
ビザンツ帝国最後の拠点、ラヴェンナを獲得。
ランゴバルド王国は、イタリア統一政策を進める。
→ ローマ教皇と対立するようになる。
56年、フランク王ピピン、教皇領献上
北イタリアのランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪う。
奪った土地をローマ教皇に寄進
見返りにローマ教皇は、ピピンの王位を支持
56年、イスラム教スペイン(アッバース朝)で、後ウマイヤ朝が独立
ラヴェンナとは
当時、イタリアの最大の都市
イタリア中部の北東部に属する。
サン=ヴィターレ聖堂などビザンツ様式の建物が多い。
カール大帝、ローマ教皇から戴冠を受ける。
68年、カール大帝即位
74年、フランク王カール大帝、イタリア北部のランゴバルド王国を滅ぼす。
86年、イスラム教アッバース朝、ハールーン=アッラシード
アッバース朝全盛期
バグダードは100万人都市に
87年、ノルマン人(デーン人)の侵入
第二次民族大移動のはじまり
デーン人とは、のちのデンマーク人
北海沿岸(イングランド、フランク王国北部)で海賊行為
ここから、イングランドでは、
デーン人とアングロサクソン人の戦いが始まる。
88年、フランク王カール大帝、バイエルン(ドイツ南東部)を併合
91年、フランク王カール大帝、アヴァール王国を滅ぼす。
アヴァール人とは、
アジア系騎馬民族でハンガリーに本拠地をおき、
ビザンツ帝国、フランク王国、スラヴ人と戦っていた。
00年、カール大帝戴冠
次回予告
ゲルマン人は、いかにしてヨーロッパに勢力を拡大したのか
ローマ教皇は、いかにしてローマを守り続けたのか
イスラム教シリア系ウマイヤ朝は、ヨーロッパにどのような影響を与えたのか
「7世紀のフランス メロヴィング朝
イスラム教の成立がフランスにどのように影響を及ぼしたのか」
お楽しみに
このころの日本は
このころの中国は