10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

16世紀の日本 戦国時代 織田信長を大航海時代、鉄砲と石見銀山

 16世紀は戦国時代であり、織田信長豊臣秀吉が活躍したのもこの時代である。この時代、ヨーロッパでは大航海時代で、おもにスペインポルトガルが世界を席巻した時代である。16世紀は、日本もヨーロッパも宗教的に大転換期にあった。日本では織田信長比叡山の焼き討ちなどを行い、政教分離の徹底を行っていた頃、ドイツではルター宗教改革が始まった。

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15世紀の日本 室町時代 武家と公家の融合の象徴、金閣寺、銀閣寺

 15世紀は室町時代であり、この時代に戦国時代が始まる。
 15世紀になり、北京の永楽帝がクーデターで明皇帝に即位すると、周辺国に朝貢を求めた。足利義満は、これを快諾し朝貢貿易を始め、経済力を得た。これを背景に北山文化が始まった。金閣寺はその一例である。北山文化は京都のきらびやかな貴族文化と禅宗の影響を受けた質素な武家文化が融合した文化であった。
 13世紀鎌倉時代の武士は、血統で結びついていた。しかし、15世紀になると、南北朝の動乱や守護の権限強化によって、家々の長ではなく各地の守護と結びつくようになる。こうして地位をあげた大名を守護大名という。南北朝の戦乱が落ち着くと大きな戦乱がなくなったため、軍事力よりも政治力がものをいう時代になる。そのため、有力武士は所領に戻らず京都に居つき、自分の部下(守護代)を所領に派遣させて所領の統治を任せるようになった。そのため、地方では、有力武士ではなく部下(守護代)や地方の豪族(国人)が力を持つようになる。一方で有力武士は、京都に在住し公家化していった。京都の貴族の遊びや京言葉を話せることが当時の武士のステータスであった。
 15世紀半ば、将軍の後継者争いで再び京都で戦乱がおこる。応仁の乱である。これは、有力な武士の後継者争いが絡んだため、大規模になるとともに長期化し、京都は焦土と化した。この結果、室町幕府の権力が地方に及ばなくなり、守護大名やその土地の有力武士(守護代や国人)が武力をもって独自に政治を行うようになった(戦国大名)。戦国時代の始まりである。ちなみに、応仁の乱期の将軍足利義政は、銀閣を中心とした東山文化を形成した。茶道、華道などのわびさび文化はこの時代に形成された。庭園では水を使わない石庭(枯山水)などが流行った。ちなみに四畳半はこの時代に始まった。
 室町時代の農業は、14世紀から引き続き、農業生産性が向上していた。工業では勘合貿易の輸出品として織物生産が盛んになった。西陣織などがその一例である。としてとしては貿易港として、博多、山口、堺が発展した。また、当時は力が正義の時代であった。年貢の引き下げや借金の帳消しをもとめて土一揆がおこった。

 

14世紀の日本 南北朝時代 太平記に描かれた鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱

 14世紀は、鎌倉末期と南北朝の時代である。太平記(ちなみに書かれたのは15世紀初頭)の舞台もこの時代である。
 当時の武士は、困窮していた。モンゴル撃退に伴う戦費の負担と分割相続による収入の減少である。
 武士の不平をみて、京都の後醍醐天皇は、再び鎌倉幕府の追討令を出した。そして、新田義貞足利尊氏ら鎌倉武士が参加し、鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇は、公家(京都の貴族)向けの政治を行い、武士を軽視した。京都側についた武士は反発した。そのリーダー格になったのが足利尊氏である。足利尊氏は、後醍醐天皇を京都から追放し、新しい天皇を建て、室町幕府を樹立した。(北朝)。一方で、後醍醐天皇は、奈良の吉野に逃れて南朝を建てた。これが南北朝の動乱である。南北朝の動乱はそれぞれの武家の相続争いが絡んだため、長期化した。室町幕府は、有力武士を味方につけるため守護の権限を強化した。
 一方で、困窮した武士の中には海賊になるものもいた。彼らは、東シナ海を中心に活動し、倭寇(わこう)とよばれた。当時の東アジアはモンゴルの衰退期で、中国では明が成立し、朝鮮では李氏朝鮮が成立した。
 14世紀末、三代将軍足利義満は、南朝と平和的に合一した。

13世紀の日本 鎌倉時代 素朴で質素な武家社会とモンゴル

 13世紀は、鎌倉時代である。
 当時の鎌倉幕府の役割は、武士の土地トラブルの訴訟の解決が大きかった。影響力も関東地方周辺に限定されていて、西国は京都の影響力が強く。東北地方は、奥州藤原氏独自の政権を築いていた。源頼朝東北の奥州藤原氏を滅亡させ、関東東北など東日本全体に影響力を及ぼした。
 鎌倉幕府は最初世襲されていた。源氏の血統が途絶えると、京都の後鳥羽上皇は鎌倉武士のNo2 であった北条家に追討令を出したが、多くの武士が北条方についたため、これを返り討ちにした。(承久の乱)。この事件により、京都の天皇や貴族(公家)の権力は大きく衰退し、武士の政治力が高まった。一方で、権力基盤のない北条家は、これまでの慣習を法令にしてそれに基づいて政治を行った。(御成敗式目
 また、世界史では13世紀はモンゴルの時代と言われている。モンゴルは日本にも攻めてきたが、これを鎌倉武士は撃退した。
 文化面では、鎌倉新仏教が成立した。11世紀から始まった末法思想が12世紀の戦乱によって武士や庶民まで浸透してきた。武家の世界では曹洞宗などの禅宗が流行った。座禅などは禅宗の宗教の考え方による。仏教は庶民にも広まり、念仏をとなえる浄土宗や日蓮宗などもこの時代に始まった。また、当時の文化は京都であったが、平安時代から続く派手な貴族文化のほか、武士や庶民に浸透した文化が台頭し始めたのもこのころである。また、禅宗の影響で平安時代のようなきらびやかな文化から質素で素朴な文化が流行り始めた。
 12世紀の宋(中国)のように、農業技術が進歩し、お茶などの商品作物(米以外の販売用作物)の生産が普及した。また、12世紀の日宋貿易による中国製の銅銭の流入や商品作物の登場で商業活動が活性化した。このころ日本刀を作る技術を応用して鉄製農具が作られ始めた。

12世紀の日本 平安時代末期 戦乱により台頭する武士

おはようございます。
sekaishiotakuです。

 

 院政がすすみ、天皇上皇天皇を譲位して、政治に集中する)などの対立が生じ、多くの戦乱が生じた。保元の乱平治の乱である。この対立では武士が活躍した。その結果、武士の発言力が大きくなった。
 そこで登場したのが、平清盛である。瀬戸内海の海賊退治で名をあげ、保元の乱平治の乱で勝利し、太政大臣となった。経済面でも、大輪田の泊(のちの神戸港)を整備し、9世紀に成立した宋との交易で大きな利益を上げていた。当時の宋は靖康の変で華北を東北部の女真族に奪われていたが、農業技術の進歩や商業の活発で経済は活気を持っていた。ちなみに宋との貿易で多くの銅銭が日本に流入し、13世紀に貨幣経済が浸透するきっかけとなった。
 一方、関東の武士たちが、平治の乱島流しにされた源頼朝を担ぎ上げ、鎌倉に軍事政権を樹立した。鎌倉武士の頭領となった源頼朝は、京都にいた平家を滅亡させ、地方武士の地位向上に努めた。そして、将軍(征夷大将軍)となった。
 源頼朝は、京都から守護(地方の警察・司法権)と地頭(土地の管理者)の任命権を得て、これを使って武士をコントロールした。12世紀末の日本は、京都を中心とした皇室公家のグループと鎌倉を中心とした源氏、そして東北地方の奥州藤原氏の3つに分断されていた。

今後のスケジュール

こんばんは、sekaishiotakuです。

世界史のブログといいながら、日本史の記事が続いております。
これは、最も身近な日本の歴史を通じて世界史の知識を入れる入れ物を作っていきたいと思っています。タイトルを日本の歴史と記載しながら中国の歴史についても通常の日本史よりも詳しく記載したりして、世界史につながるように記載をしております。

 

今後のスケジュールですが

そのあとは、東洋史西洋史を交互に入れていこうと思っています。

東洋史は、17世紀の4大帝国を制覇していく意味で、イラン(サファヴィー朝)、インド(ムガル帝国)、トルコ(オスマン帝国)をやっていこうと思います。

 一方、西洋史は、幕末に日本と条約を結んだ5か国、ロシア、イギリス、アメリカ、オランダを進めていこうと思います。

 希望があれば、コメントをください。

11世紀の日本 平安時代後期 源氏物語の完成と藤原道長の栄枯盛衰

 末法思想がブームになる。仏教を信仰すれば、極楽浄土へ行けるという思想で、キリスト教最後の審判に近い。ちなみに西ヨーロッパでもローマ教皇の影響力が大きくなり、十字軍が始まったのも11世紀末のことである。11世紀初頭に建てた藤原氏が建てた宇治の平等院鳳凰堂末法思想の影響を受けている。
 11世紀初頭は、藤原氏の全盛期で、藤原道長・藤原頼道はこの時代である。この全盛は文化面でよく出ていて、長編恋愛小説である源氏物語や宇治の平等院鳳凰堂はこの時代のものである。
 しかし、頼道の後は、藤原氏で女の子が生まれなくなり、次第に影響力を失っていった。後半になると天皇が独自に政治を仕切るようになる。院政が始まったのもこの世紀にである。また、藤原氏の影響力がなくなると政府は荘園整理令をだし、藤原氏の荘園を国有化し税収を増やそうとした。
 地方では、武装化した農民が、京都から派遣された国司と結びついて組織化していった。武士の起こりである。主に武士の頭領になったのは、代表格は、旧皇族藤原氏の影響で要職につけなかったもので、平氏と源氏である。
 一方、外交面では、11世紀初頭藤原道長の時代には、中国東北部の狩猟民族(女真族)の国、渤海が九州に侵攻したが、日本はこれを撃退した。一方で、東北地方では、源氏が活躍し、東北の豪族を服従させた。ここで活躍した源氏は奥州藤原氏として土着した。