10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

10世紀の日本 平安時代中期 源氏物語の舞台 賄賂と荘園で私腹を肥やす藤原一族

 遣唐使が廃止された結果、日本独自の文化が形成された。それまでは、中国の騎馬民族のようなぴっちりした服装が正装とされていたが、十二単などのようなふわっとした服装が主流になった。また、寝殿造りという日本風の建築様式もこの時代に発達した。土佐日記竹取物語かぐや姫などのひらがな文学も登場した。古今和歌集が編纂されたのもこの時代です。
 この時代になると、国司の圧政や兵役義務などで逃亡農民の増加で口分田はほどんどなくなり、政府の税収はほとんどなくなっていた。そのため、軍事機能や警察機能はほとんどなくなっていた。京都は検非違使などの臨時の役職で治安を維持したが、地方は、警察機構がなくなり、農民が自ら武装して治安を維持した。のちの武士の起こりである。
 一方で藤原氏は、国司(今の知事)の任命権や荘園からの収入でかなりの財力を持っていた。皇后が基本的に藤原氏の娘がなるようになり、藤原氏が要職を担うようになった。
 当時、中小貴族は、国司となって地方で稼いで、有力貴族に賄賂を渡して再度国司になろうとした。時代が進むと有力な貴族は水から地方へ行かず、代理の者を生かせるようになった。一方で、中小貴族は、任期が終わっても京都へ戻らずそのまま土着するものもあらわれた。10世紀前半には、旧国司平将門が関東で挙兵して鎮圧している。関東では、京都の圧政からの解放に尽くした英雄とされ、神田明神として祀られている。

9世紀の日本 平安時代初期 東北出兵と仏教改革

 9世紀~12世紀は平安時代と呼ばれていた。
 794年に平安京(京都)に遷都を行った。ただ、政治体制は大きく変わっていない。
このころになると唐は、8世紀の安史の乱で都長安が焦土と化した後、再建できずにいた。異民族の侵入(ウイグル人)や内乱(黄巣の乱)で大きく混乱していた。そのため、894年遣唐使は廃止された。このころ、東北方面への領土拡大も進めている。清水寺ゆかりの坂上田村麻呂も東北侵攻の中心人物である。青森県八戸市の八戸は八番目の砦という意味である。
 地方では、国司の給料体系が改められ、口分田から上がる税金は、一部を京都に納付し、それ以外は懐に入れることができるようになった。これにより私腹を肥やす中下級貴族が登場した。
 文化面では、飛鳥、奈良時代からの仏教が批判され、遣唐使に追随した留学生最澄空海がもたらした天台宗延暦寺)や真言宗(東寺、金剛峰寺)が登場した。これらの宗教の特長は、都市ではなく山中に寺院を置くのが特徴である。

8世紀の日本 奈良時代 国際色豊かな奈良

 日本の7世紀は奈良時代にあたる。
 当時の中国は、唐の時代である。唐自体は国際色豊かでペルシアなどの影響を色濃く受けていた。
 日本も遣唐使を頻繁に派遣し、唐の影響をかなり受けていた。唐の長安を見習って奈良に平城京をつくり遷都した。奈良時代にできた大仏の開眼供養もインド人の僧が行った。中国同様の法治国家体制律令制を採用した。一方、高句麗の末裔(女真族)が中国東北部渤海を建国。日本と交易を行っていた。7世紀にイスラム教国に滅ぼされたペルシアからは、多くの難民が唐へ逃げてきた。その一部は奈良にも来ている。
 宗教的には、唐の則天武后の影響で仏教を厚く保護し、全国各地に国分寺を建て、奈良には大仏を造った。文化面でも、中国の慣習にならい歴史書が編纂された古事記日本書紀万葉集が編纂されたのもこの時代である。ただ、この時代の書籍はすべて漢字で、ひらがな、カタカナはまだない。また、この時代、イスラム教国(ウマイヤ朝アッバース朝)が拡大しており、奈良東大寺正倉院からは、ヨーロッパやペルシアの宝物が治められた。
 税制面では、天智天皇の時代に始まった均田制は、国民に配布する土地が少なくなった。当初は、国家が開墾を進めたが思うように進まず、墾田永年私財法で田畑の私有権をあたえることで民間で開墾を進めた。これが荘園の始まりである。地方は、都から国司が派遣され、地方の豪族を利用して統治をおこなった。政治体制は、皇族と藤原氏が主導権争いを行っていた。

7世紀の日本 飛鳥時代 曹操の政策を手本にした聖徳太子、唐に敗北した中大兄皇子、唐のスタイルを取り入れた天武天皇・持統天皇


聖徳太子は、十七条憲法や魏の九品中正をもとにした役人の人事制度 官位十二階を作った。当時の日本外交の課題は、新羅に奪われた朝鮮半島の領地の奪還にあった。新羅包囲網として、当時の友好国の百済のほか、中国の新興国隋とも仲良くしたかった。中国を統一したばかりの隋に使いを送る。その返礼を迎えるため法隆寺を建てた。法隆寺は世界最古の木造建築物である。隋も高句麗遠征を計画していて日本と友好関係を築いておきたかった。聖徳太子の死後も、蘇我氏専制は続いた。中国への使いは、唐の時代に入っても引き続き行われた。しかし、唐が朝鮮のパートナーとして選んだのは日本の仮想敵国新羅であった。
645年 皇太子の中大兄皇子、(のちの天智天皇)と有力豪族の中臣鎌足がクーデターを起こし、蘇我氏専制が終わった。中臣鎌足は、藤原の姓を賜り、藤原一族の祖となる。中大兄皇子らは、北魏で採用された均田制を日本に導入した。均田制とは国民は政府から土地が支給され、代わりに納税と兵役の義務を負う。また、朝鮮の親交国 百済の要請を受け、唐・新羅連合軍と戦い敗れた。(白村江の戦い)。その後、朝鮮は新羅が統一し三国時代が終了した。日本は、唐の影響を強く受けるようになる。一方で、福岡には水城(みずき)が築かれ、兵役の義務を受ける国民の一部が防人として派遣された。
天智天皇の死後、後継者争いで天智天皇の息子と弟が争う。(壬申の乱)。弟が勝利し、天武天皇が即位する。有力な豪族はこぞって、息子側についたため、多くの豪族が失脚した。その結果、天皇の地位が高まった。このころから「日本」と呼ばれるようになる。天武天皇の後は、奥様の持統天皇が即位した。唐王朝では、則天武后が即位し、科挙を重視した人事政策をとっており東アジアは女性皇帝が並んだ。

6世紀の日本 飛鳥時代 仏教伝来と聖徳太子

当時、ヤマト政権は飛鳥(今の奈良県明日香市)に都をおいていた。そのため6世紀~7世紀を飛鳥時代と呼ばれる。
当時、韓国の友好国の百済から仏教が伝わった。それ以前は八百万の神を信仰する神教が信仰されていた。神社が神教の施設であり、寺が仏教の施設である。
この仏教を積極的に受け入れるか否かで日本は2つのグループに分かれた。物部氏を中心とする仏教反対派と蘇我氏を中心とする仏教推進派である。結果、仏教推進派が勝利し、その後、蘇我氏が政府の要職につくようになる。飛鳥周辺には多くの寺院が建てられた。
593年、蘇我氏のバックアップで聖徳太子推古天皇の摂政となった。

5世紀の日本 古墳時代 巨大古墳と中国への朝貢を再開

日本各地で古墳が作られている。この時代になると古墳は巨大化し、世界最大級の王墓、大阪府の大仙古墳もこの時代に作られた。この時代には天皇を中心としたヤマト政権が成立している。ヤマト政権は、血縁関係で作られたグループの集合体であった。その血縁関係のグループを氏(うじ)という。現在の名字の起源である。当時の天皇は、大王(おおきみ)と呼ばれ、絶対的な権力はまだなく、ヤマト政権は地方豪族の連合政権であった。当時はまだ人事制度がないため、人事は世襲で行われていた。(日本で人事評価制度が7世紀聖徳太子時代の官位十二階からである。)
当時の中国は、南北に分裂していた。このころから日本は、朝貢を再開し、南朝に使いを送った。当時の北朝は、戦乱が続いていたほか高句麗があった関係で従来の朝鮮半島経由のルートで中国へ行くことができず、東シナ海を海路で渡っていた。

4世紀の日本 古墳時代 ベールに包まれた日本 鉄を求めて朝鮮半島へ

 中国は異民族の侵入などでさらに戦乱が激しくなる。そのため日本からの遣使の記録は見当たらない。そのため、この時代は「空白の4世紀」と呼ばれている。この時代に天皇を中心としたヤマト政権が成立したものと思われる。
 この時代、中国の領地であった朝鮮半島は、中国の混乱を機に中国東北部の狩猟民族(女真族)が朝鮮半島北部に侵入し、高句麗を建国。また、南部では、朝鮮人新羅百済を建国。朝鮮半島ではこの時代が三国時代になる。
日本のヤマト政権は、朝鮮半島から鉄の輸入を行っていたようで特に百済と友好関係を結んでいた。4世紀末になると朝鮮出兵を行っている。