10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

7世紀の日本 飛鳥時代 曹操の政策を手本にした聖徳太子、唐に敗北した中大兄皇子、唐のスタイルを取り入れた天武天皇・持統天皇


聖徳太子は、十七条憲法や魏の九品中正をもとにした役人の人事制度 官位十二階を作った。当時の日本外交の課題は、新羅に奪われた朝鮮半島の領地の奪還にあった。新羅包囲網として、当時の友好国の百済のほか、中国の新興国隋とも仲良くしたかった。中国を統一したばかりの隋に使いを送る。その返礼を迎えるため法隆寺を建てた。法隆寺は世界最古の木造建築物である。隋も高句麗遠征を計画していて日本と友好関係を築いておきたかった。聖徳太子の死後も、蘇我氏専制は続いた。中国への使いは、唐の時代に入っても引き続き行われた。しかし、唐が朝鮮のパートナーとして選んだのは日本の仮想敵国新羅であった。
645年 皇太子の中大兄皇子、(のちの天智天皇)と有力豪族の中臣鎌足がクーデターを起こし、蘇我氏専制が終わった。中臣鎌足は、藤原の姓を賜り、藤原一族の祖となる。中大兄皇子らは、北魏で採用された均田制を日本に導入した。均田制とは国民は政府から土地が支給され、代わりに納税と兵役の義務を負う。また、朝鮮の親交国 百済の要請を受け、唐・新羅連合軍と戦い敗れた。(白村江の戦い)。その後、朝鮮は新羅が統一し三国時代が終了した。日本は、唐の影響を強く受けるようになる。一方で、福岡には水城(みずき)が築かれ、兵役の義務を受ける国民の一部が防人として派遣された。
天智天皇の死後、後継者争いで天智天皇の息子と弟が争う。(壬申の乱)。弟が勝利し、天武天皇が即位する。有力な豪族はこぞって、息子側についたため、多くの豪族が失脚した。その結果、天皇の地位が高まった。このころから「日本」と呼ばれるようになる。天武天皇の後は、奥様の持統天皇が即位した。唐王朝では、則天武后が即位し、科挙を重視した人事政策をとっており東アジアは女性皇帝が並んだ。