日本は、平安時代である。遣唐使を廃止し、ひらがなや寝殿造りなどの独自文化が花開き始めた。このころ唐王朝が滅亡。唐王朝を滅ぼした朱全忠も開封周辺しか統治ができず、地方は唐王朝期に成立した節度使が独自の政治を行っていた。中国の混乱期、周辺諸国では独自の文化を構築した。日本の国風文化(平安時代)はその一例である。
その後、宋王朝が成立。中国を統一した。この戦乱期を五代十国時代という。この戦乱によって、門閥貴族は没落。均田農民であった新興地主層が台頭してきた。
10世紀の国際情勢
西ヨーロッパでは、東西のフランク王国でカロリング朝が断絶。また、ノルマン人の大移動が始まった。中東では、いくつもの王朝が乱立していた。
10世紀初頭、朱全忠は唐を滅ぼした。しかし、影響力は開封周辺に限られた。それ以外の地域は、旧節度使(藩鎮)が支配し、中国全土で戦乱が続いた。これらの国は十国と呼ばれた。この時代を五代十国時代という。その後、宋が中国最大の都市開封を都として建国。中国大陸を再び統一した。
開封は、かつての都長安、洛陽と違い皇帝ではなく商人によってつくられた都市である。この時代、商人や手工業者の組合が結成される。商人の組合は行(こう)と呼ばれる。銀行の語源もこれである。一方手工業者の組合は作(さく)と呼ばれた。貨幣経済も浸透した。当初は銅銭であったが、このころになると紙幣が登場した。
この戦乱で多くの貴族は、土地を失い没落していった。そして、それらの土地を買い占めていった新たな地主層が現れた。
周辺諸国も、唐の影響力の衰退で大きく変動した。北方では、キルギスからモンゴル系の契丹族に代わった。16年耶律阿保機(ヤリツアボキ)が契丹を建国。26年契丹族は中国東北部の満州族の渤海を支配下に置いた。また、36年モンゴル系契丹は、中国の戦乱に援軍を送り、後晋の建国を支援。北京周辺(燕雲十六州)を領土に加えた。47年、契丹族が後晋を滅ぼし、華北最大の都市開封に入城。国号を中国風の遼に改める。60年に成立した宋王朝を圧迫し続けた。
47年朝鮮でも王朝交代が起きた。唐と同盟を結んで統一した新羅から高麗に政権が変わった。高麗は仏教を重んじた。ベトナムも中国から独立を果たした。
60年、五代の混乱が終結し、宋王朝が建国。建国者は趙匡胤。都は華北最大の都市、開封であった。このころは、地方はまだ藩鎮が納めていた(十国時代)。趙匡胤の統治の特徴は、皇帝権力の強化と中央集権化をはかり、唐王朝の藩鎮による武断政治から、科挙合格者による文治政治への転換を図り、官僚機構を整備した。このころ、科挙試験の不正事件が発覚。これにより殿試(皇帝自ら筆記試験を実施)が導入。
地方では、節度使の欠員を科挙合格者の文官で補充した。中央では門下省を廃止し、中書省に併合した。常備軍(皇帝親衛隊)を強化した。官僚採用試験科挙が完成。殿試が導入された。
79年、2代皇帝太宗は、五代十国の十国最後の国後周を滅ぼし、中国を統一した。しかし、北京周辺の燕雲十六州は、北方民族(契丹族)の遼の支配下にあった。科挙は、だれでも受けることは可能だが、実際に科挙に合格できる勉強ができたのは一部の富裕層に限られた。五代十国時代に登場した新興地主層である。彼らは形勢戸(けいせいこ)と呼ばれた。この官僚になった新興地主層は士大夫(したいふ)と呼ばれた。
このころの日本は