1940年代前半のフランス 第二次世界大戦下のフランス
第二次世界大戦は、3つの勢力が存在していた。イギリスと中心とした自由主義グループ、ソ連を中心とした社会主義グループ、ナチスドイツを中心としたファシズムグループである。フランス国内もド・ゴールを中心とした自由主義グループ、フランス共産党を中心とした国内のレジスタンス、そして、ナチスドイツと友好関係にあるヴェルシー政権であった。
第二次世界大戦の4つの区分
ヨーロッパの第二次世界大戦は4つの時期に分かれる。ドイツとソ連が東欧諸国を分割。ドイツがフランスなどを侵攻。独ソ戦。そしてドイツの衰退期である。当初、ソ連はドイツ側についていたが、独ソ戦がはじまるとイギリス側に回る。これがドイツの敗戦の要因になる。ドイツの衰退期に入ると米英ソで、第二次世界大戦後の国際秩序について何度も会談が行われる。この会談ではイギリスとソ連がヨーロッパの勢力争いが行われた。これが冷戦初頭の国際情勢に大きな影響を与える。
第二次世界大戦下のフランス
40年、フランスはナチスドイツの支配下に入った。当初、フランスは反英感情や前政権の失政により、ナチスドイツは好意的にとられた。しかし、42年ナチスドイツが劣勢になると、ナチスドイツの過酷な占領政策に反発。レジスタンスが盛んになった。その中心にいたのは共産党であった。
フランス植民地の動向
アフリカのフランス植民地は、ヴェルシー政権が統治した。ド・ゴールの自由フランスはヴェルシー政権への抵抗を呼び掛けた。しかし、多くの植民地政府はヴェルシー政権を支持した。しかし、42年ごろ、自由フランスを支持する側が多くなる。42年11月には連合国がアフリカを制圧した。
一方、ベトナムは、ナチスドイツの同盟国、日本が進駐した。一方で、ベトナム共産党のホーチミンはベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成した。
第二次世界大戦がもたらしたもの
39年9月、第二次世界大戦勃発
当初は、独ソの東欧諸国の分割の形で始まった。
しかし、英仏は、開戦直後具体的な軍事行動はとっていない。
40年4月、ナチスドイツ、オランダ・ベルギー侵攻 (西部戦線開戦)
40年5月、ナチスドイツ、フランスに侵攻
40年6月、ナチスドイツ、わずか1か月でパリ陥落。第三共和政崩壊。
同盟国のイタリアも、フランスに侵攻。
ドイツは、国境付近を併合。北部を占領し、南部にヴェルシー政府を樹立した。ヴェルシー政府は、左派の人民戦線に反発していた右派や親ナチ派が参加した。国家主席には第一次世界大戦の英雄ペタン将軍を迎えた。
イギリスのロンドンに亡命していたド・ゴール将軍は自由フランスとしてナチスドイツと徹底抗戦を表明。ド・ゴール将軍は主にフランス領のアフリカで活動した。
ドイツの同盟国日本は、対漢援助禁止を警告。しかし、フランスのペタン首相は、ナチスドイツ、イタリアと休戦。以後、フランス政府はファシズムグループに入る。
40年7月、
フランス政府、フランス南部ヴェルシーに移動。イギリスは北アフリカのフランス領アルジェリアでフランス艦隊を撃滅。ルブラン大統領が辞任。ペタン元帥が国家主席になる。ここに第三共和政が終わる。ナチスドイツのヒトラーはイギリスに和平を求める。一方でフランス各地でヴェルシー政権への抵抗運動がおこり内戦状態になる。
40年9月、フランスのラスコー洞窟で洞窟壁画を発見。
ナチスドイツの同盟国日本、フランス領インドシナ北部に進駐。
日独伊三国軍事同盟が成立。
40年10月、南フランスヴェルシー政権がユダヤ人迫害を開始。
40年11月、フランス領インドシナ、タイと国境紛争。
41年3月、アメリカ、武器貸与法でイギリス・ソ連を支援。
41年4月、日ソ中立条約
41年5月、日本の仲介で、フランス領インドシナとタイの国境紛争が終わる。
ホーチミンがベトミン(ベトナム独立同盟会)が成立。
41年6月、ナチスドイツ、ソ連へ侵攻。
フランス共産党が国内の抵抗運動を組織化。
ド・ゴール将軍の自由フランスは、フランス共産党と連携。
自由フランスは拠点を北アフリカのフランス領アルジェリアに拠点を移す。
41年7月、アメリカ、イギリス、オランダ、対日資産を凍結。
独ソ戦をうけて、英ソ軍事同盟が成立。
41年7月、日本軍、フランス領インドシナ南部に進駐。
41年8月、英米首脳により、大西洋憲章発表。国際連合の基礎。ソ連はこれを支持。
アメリカ、日本に経済制裁(石油禁輸)
41年11月、アメリカ、日本にハルノートを突きつける。
41年12月、日本、英米に宣戦布告。太平洋戦争始まる。
→ これにより、アメリカが本格参戦。
42年1月、大西洋憲章をうけて、英米にソ連など26か国が加わり、連合国共同宣言。
(日本、ドイツ、イタリアなどと個別に講和条約を結ばない。国際連合の設立)
英米軍、タイを攻撃。
42年5月、イギリス、フランス領マダガスカルを攻撃。
連合国の総反撃
42年6月、日本海軍、ミッドウェー海戦で敗戦。
42年11月、連合国軍、北アフリカのフランス領モロッコ、アルジェリアへの上陸作戦。
連合国軍と南フランスヴェルシー政権軍が休戦。
ヴェルシー政府は崩壊。ナチスドイツがフランス全土を占領。
イタリアはフランス南東部とコルシカ島を占領。
42年8月、アメリカ、核開発を始める。
43年1月、英米、フランス領モロッコのカサブランカで会談。
北アフリカ戦線の視察とイタリア上陸作戦の決定。
43年5月、フランス領アルジェリアの自由フランスのド・ゴール将軍が
フランス国民解放委員会を組織。
ソ連、英米と強調するため19年に設立したコミンテルンを解散。
43年7月、カサブランカ会談の決定により、イタリアシチリア島上陸作戦を実行。
イタリア国王、ムッソリーニを逮捕。休戦協定に入る。
しかし、ドイツ軍が侵攻。イタリア政府は、南部に遷都した。
43年9月、連合軍がイタリア上陸。一方で、ドイツ軍はローマを占領。
ムッソリーニを救出。パルチザンのナチスドイツへの抵抗運動が始まる。
43年11月、米英中、カイロ会談。(エジプト)対日本への方針を決定。
ソ連は日ソ中立条約があるため、会談には参加せず。
日本の東条英機内閣の「大東亜共栄宣言」への対策。
43年12月、米英ソ、テヘラン会談。(イラン)
論点は3点。イラン、ポーランド、バルカンであった。
この時、ソ連の日本参戦のタイミングも話し合われている。
この会談には、ソ連の発言力大きさとイギリスの影響力の低下がよく表れた。
ポーランド問題は、イギリスがソ連へ妥協した国境案を提示。(ポーランドのしかし、ロンドンのポーランド亡命政府が容認せず。問題は先送りになった。
バルカン問題では、バルカン半島へのソ連の影響力を懸念したイギリスは、バルカン半島からの上陸を主張。一方ソ連は、連合軍のフランスからの上陸でドイツを挟み撃ちにすることを主張。結果、フランスからの上陸で合意した。
44年6月のノルマンディ上陸作戦につながる。第二次世界大戦後、ギリシアは死守できたものの、その他のバルカン諸国は共産国となり、ユーゴスラヴィアを除いたソ連の影響下に置かれた。
44年6月、北アフリカのアルジェリアでフランス共和国臨時政府樹立。
ド・ゴールの自由フランス軍とアルジェリアにいた旧ヴェルシー軍が合同して成立。ド・ゴール将軍が首班を務めた。
ノルマンディー上陸作戦。
44年7月、ブレトン=ウッズ会議でIMF(国際通貨基金)とIBRD(国際復興銀行)の発足を決議。ドルを基軸通貨とする国際通貨体制を構築。
サイパン陥落。日本の本土空襲が本格化する。
44年8月、パリ解放
44年9月、シャルル・ド・ゴール、パリに帰還しフランス臨時政府をパリに移転。
44年10月、英ソ、モスクワ会談。バルカン半島とギリシアの戦後統治を話し合う。
45年2月、米英ソ、ヤルタ会談。ここでも英ソは対立した。
国際連合では、ソ連は大国の拒否権(大国の全会一致)を主張。5大国のうち、4か国アメリカ、イギリス、中国(蒋介石政権)、フランスは親英のため、多数決では負ける可能性が高かったため。
ドイツの戦後処理では、イギリスが、分割統治と米英ソにフランスを入れることを主張。これが採用された。
ポーランドば、ロンドンのポーランド亡命政府とポーランド国内で抵抗運動を続ける共産党のどちらが政権を握るかで対立。自由選挙で決めることで合意。国境については、ポーランドは、ソ連に領土を一部割譲するがその分をドイツから割譲することで解決した。
秘密条項で、ソ連はドイツ降伏の3か月後に日ソ中立条約を破棄し、日本に参戦することを合意。
ここから、89年のマルタ会談の「冷戦終結宣言」までの国際秩序をヤルタ体制という。
45年3月、日本軍は、フランス領インドシナ植民地政府を解体。
阮朝のパオダイをたて、ベトナム帝国を独立させた。
その後、カンボジア王国(シハヌーク国王)、ラオス王国を独立させた。
45年4月、日本で、沖縄戦が始まる。アメリカではローズヴェルと大統領が急死、トルーマン副大統領が大統領に就任した。連合国はサンフランシスコ会議を開いた。連合国側50か国が参加した。イタリアのムッソリーニ銃殺刑。ソ連軍がベルリンを包囲。ナチスドイツの主導者ヒトラーは自殺した。
45年5月、ベルリン陥落。ドイツは無条件降伏した。
45年6月、連合国はサンフランシスコ講和会議で国際連合発足を決議。ドイツは、米英仏ソの4か国分割統治が決まる。オーストリアは、ドイツと分離され、米英仏ソの共同管理となった。
45年7月、アメリカ、核実験成功。米英ソでポツダム会談。(ドイツ)
米英中でポツダム宣言を発表。
ソ連は日ソ中立条約でこの時点では参加しなかった。
45年8月、アメリカは日本に原爆を投下。一方ソ連は、ヤルタ協定に基づき、日ソ中立条約を破棄。日本に参戦した。日本は8月14日ポツダム宣言を受諾した。同じころ、ドイツでは、ヤルタ協定に基づいてアメリカ、ソ連、イギリス、フランスの4か国分割統治が始まった。フランスの担当地域は、アメリカが担当しているバイエルンなどのドイツ南西部の一部、フランスとの国境沿いとベルリンの一部を担当した。また、ニュルンベルク軍事裁判も始まった。
45年9月、フランス軍サイゴン占領。
45年10月、国際連合が原加盟国51か国で発足した。国際連合では、アメリカ、ソビエト連邦、イギリス、フランス、中華民国が5大国となった。
国際連盟とのちがい
軍事制裁ができる。
総会の全会一致 → 安全保障理事会の多数決。
大国に有利(大国に拒否権をあたえる。)→ 米ソの参加。
このころの日本は
このころの中国は