10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

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1880年代の中国 清王朝 西太后 清王朝、第三共和制フランスに朝貢国ベトナムを奪われる。

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清仏戦争

 1880年代の清王朝は、3つの対外戦争の危機に瀕していた。1つ目は、ロシア帝国中央アジアをめぐり対立していた。2つ目はフランスと東南アジアのベトナムの宗主権をめぐる対立。3つ目は、日本と朝鮮半島の宗主権をめぐる対立であった。ロシアとは、イリ条約で、日本とは天津条約で平和的に解決できたが、フランスとは清仏戦争に発展。敗戦により、ベトナムの宗主権を失った。一方、清王朝内部は、反キリスト教運動が盛んになった。

  81年イリ条約でロシアとの中央アジア国境紛争は解決し、中央アジアのイリ地方は清王朝に帰属した。翌82年清王朝はここに新疆省を設置した。イリ条約を締結した81年アレクサンドル2世が亡くなり、アレクサンドル3世が即位した。その後、ロシアは東欧のオスマン帝国に矛先を向け、ルーマニア王国セルビア王国を建国を支援。ベルリン条約を破棄した。一方で、中央アジアではアフガニスタンに侵攻、イギリス領インドと対立した。余談だが、イリ条約を締結した81年、『罪と罰』で有名なロシアの文豪ドストエフスキーが亡くなっている。
 84年ベトナムの宗主権をめぐり、フランスと戦争。フランスに敗北する。85年天津条約を締結し、清王朝はフランスのベトナム保護国化を容認した。その後フランスは、フランス領インドシナ連邦を成立させた。同じころ、イギリスはミャンマーマレー半島を併合。東南アジアの半島部は、タイを緩衝地帯にし、西側がイギリス領、東側がフランス領となった。当時のフランスは、第三共和政が安定しアフリカや南太平洋に植民地を拡大していた。アフリカでは、チュニジアや今後を保護国化。南太平洋ではタヒチを領有した。
 また、最後の朝貢朝鮮は、内戦状態にあった。これに対し、清王朝日本の明治政府は、たびたび援軍を送っており、一触即発の状態であった。そのため、明治政府と清王朝は、85年天津条約を締結し、戦争を回避した。両軍の朝鮮半島からの撤兵。朝鮮半島への援軍を送る際の事前通告が決められた。当時の日本政府は、立憲君主制憲法と議会を持つ王政)への移行を進めていく一方、60年の北京条約で日本海にウラジオストークを得たロシアを警戒し、富国強兵を進めていた。
 このころ清王朝内部では、列強に対する連敗からキリスト教運動(仇教運動)が盛んになる。ちなみに、キリスト教布教の禁止が解けたのは1860年のアロー戦争講和条約(北京条約)からである。

 

そのころ日本は

 

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