1850年代のフランス 第二帝政 ナポレオン三世の栄光 と クリミア戦争
48年の2月革命で大統領になったナポレオン三世は、52年国民投票により皇帝になった。ナポレオン三世、農民、資本家、労働者の利害の異なる勢力に支えられていた。
英仏通商条約を締結し、自由貿易と国内産業育成に努めた。エジプトでスエズ運河の建設を始めるとともに、パリでは、インフラを整備し、55年万国博覧会を開催。一方で、対外戦争を進めることで利害対立を外に向けさせた。
インフラの整備や、労働立法の改正で、ナポレオン三世は、労働者の支持を得ていった。一方で、工業化を進めることで資本家の支持も得た。
53年、ロシア皇帝ニコライ1世はオスマン帝国に宣戦布告。(クリミア戦争)
→イギリスはオスマン帝国支援に回った.
→イギリスとロシアとのヨーロッパでのウィーン体制後初の直接対決
→ナポレオン三世フランスはイギリス・オスマン帝国連合軍側についた。
55年、クリミア戦争の最中、パリで万国博覧会を開催。
ナポレオン三世はこれに合わせて鉄道などのインフラを整備
このころ、フランスの産業革命が完了する。
56年、ロシアがクリミア戦争に敗北。(パリ条約)
40年のロンドン条約の再確認
黒海の中立化を約束した
56年、イギリスと連合して清王朝と戦争を開始(アロー戦争)
57年、ベトナムに出兵
58年、幕末の日本(徳川政権)と日仏修好通商条約を締結
58年7月、ナポレオン3世、サルディーニャ王国の宰相カブールと密約
フランスは、イタリア統一戦争でサルディーニャ王国を支援
見返りに、南フランスのサヴォイア・ニースをフランスへ割譲
58年、レセップスがスエズ運河株式会社を設立。
スエズ運河の建設が始まる。
フランス政府とエジプト政府が折半して出資
59年4月、サルディーニャ公国(のちのイタリア)が、オーストリアに開戦。
ロンバルディアへ侵攻。(イタリア統一戦争)。
目的は、1815年のウィーン議定書で得た北部イタリアである。
59年7月、フランス、イタリア統一戦争でオーストリアと単独講和
サルディーニャ王国のローマ教皇領併合を懸念したため
→ 70年の普仏戦争時に併合
北イタリアは
ロンバルディア → サルディーニャ王国
ヴェネチア → オーストリアに残留
66年のプロイセン=オーストリア戦争時に併合
このころ日本は
このころの中国は