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1870年代の中国 清王朝 西太后 清王朝、日本の明治新政府と国交樹立

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摂政になった西太后

 1879年、清王朝はかつての朝貢明治新政府と対等外交を結ぶくことになる。当時の清王朝中央アジアイスラム教の反乱で苦しんでいた。また、同治帝がなくなり、幼い光緒帝が即位。同治帝の后西太后が摂政となった。西太后は、洋務運動を取りやめた。一方で、中央アジアではロシア帝国と対立するようになる。

  ロシアと中央アジアの権益をめぐって国境紛争がおこる。中央アジアイスラム教の反乱がおき、ロシア帝国が出兵。一方で、清王朝イスラム教徒の反乱に対し鎮圧軍を派遣していた。そのため、清王朝ロシア帝国は紛争状態になる。
    当時のロシアは、アレクサンドル2世の時代で、統一したばかりのビスマルク首相のドイツ、ハプスブルク家オーストリア三帝同盟を締結したいた。当時のヨーロッパは、ビスマルク外交で安定期を迎えていた。ロシアは3方向で南下政策を進めていた。一つは、黒海から地中海を通るルート、2つ目は、中央アジア経由でインド洋に出るルート、3つ目は日本海もしくはオホーツク海から太平洋に出るルードである。3つ目の太平洋ルートについては、アロー戦争後の60年の北京条約で日本海にウラジオストークを得ていた。その後、75年日本の明治政府と千島樺太交換条約を締結。これにより、太平洋ルートの国境は画定した。2つ目のインド洋ルートでは、中央アジアの国を次々併合していた。対立するインドでは、77年イギリス領インドが成立し、ヴィクトリア女王の直轄地となった。1つ目のルート、黒海・地中海ルートでは、78年黒海の対岸オスマン帝国に開戦露土戦争。翌78年、ロシアはオスマン帝国に勝利。サン=ステファノ条約を締結。オスマン帝国内のブルガリアを独立させ、ロシアの保護国とした。これにより、ロシアは地中海に港をもつことができた。しかし、これにイギリスが干渉。これを仲介したのが、統一したばかりのドイツ帝国の首相ビスマルクであった。同じ78年に開催されたベルリン会議では、ブルガリア独立は認められたものの、地中海沿岸地域はオスマン帝国に返還された。
 74年同治帝がなくなると、幼い光緒帝が即位。摂政として光緒帝の母でのちに世界三大悪女と語られる西太后が実質の政治を取り仕切った。西太后は、曽国藩や李鴻章漢人官僚がすすめていた洋務運動を取りやめた。一方、72年曽国藩が死去。その後、李鴻章が取り仕切るようになる。
 また、79年日本の明治新政府と国交樹立。これまで国境が未画定であった琉球(沖縄)と台湾について、琉球を日本領、台湾を清王朝とした。これにより、日本は、朝貢国から対等外交国となり、琉球は、日本領となった。このころ、日本の明治政府は、67年に大政奉還を終えたばかりで西南戦争など旧武士の反乱が起きていた。鎖国状態の李氏朝鮮を開国させた。

そのころ日本は

 

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