3世紀、東アジアでは漢王朝が滅亡。三国志の時代へ入った。一方、ローマ帝国も五賢帝の黄金期がおわり、軍人皇帝の時代に入った。これによりローマ帝国は衰退した。
当時のイングランドは、ローマ帝国の支配下にあった。しかし、軍事皇帝時代に入ると、ローマ帝国の影響は薄くなっていった。
前回の復習 ローマ人(ラテン人)の逃亡
4世紀、ゲルマン人の侵攻でローマ人(ラテン人)がイングランド(ブリタニア)を放棄した。ここから、侵入者であるゲルマン人と原住民であるブリトン人(ケルト人)との戦いが始まる。
今回は、ローマ人(ラテン人)がいたころのイングランドの様子を見ていきます。
軍人皇帝時代とローマ帝国の衰退
2世紀の五賢帝の黄金期が終わり、3世紀に入ると軍事皇帝時代に入った。軍事クーデターによって皇帝がコロコロ変わる時代になった。これにより、元老院(議会)の発言力は弱くなり、4世紀の専制君主制の時代へ移行していく。
イングランドではローマの支配が次第に弱くなってくる
このころになると、属州(ローマ帝国の征服地域)へのローマの影響力は、低くなっていた。イングランド(ブリタニア)も例外ではなかった。各属州の軍団長が独自に政治を行うようになっていた。隣国のフランス(ガリア)はローマ帝国から独立運動を起こすこともあった。
ちなみに、4世紀に皇帝になったコンスタンティヌス大帝はガリアの軍団長を経て皇帝になっている。
ラティフンディアからコロヌスへ
2世紀までのローマ帝国の農業は、戦争なので獲得した奴隷を使った大規模農業が主流であった。この行業スタイルをラティフンディアという。
しかし、2世紀後半に入るとローマの拡大は止まった。これにともない、戦争奴隷が急減。奴隷の供給が止まった。
3世紀に入ると、農園領主は、これまで奴隷だったものにある程度の自由を与えた。そして、彼らに土地を貸して小作料をとる形式に代えた。この農業スタイルをコロヌス制という。中世の農奴の原型といえる。
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この頃のローマ帝国は
このころのアジアは