日本が室町時代だった15世紀。フランスは中世最後の戦い百年戦争に勝利。これによりフランスは王室の権威が高まり、国土も現在のフランスとほぼ変わらない状態になった。
15世紀末になると、大航海時代が始まりいよいよ近代に入っていく。このころ、フランスはオーストリア(神聖ローマ帝国)とのイタリア戦争が始まる。
- コンスタンツ公会議で教会大分裂がおわる
- ジャンヌ=ダルクの活躍でイングランドとの百年戦争に勝利
- イタリア戦争開戦。ハプスブルクとの因縁と対立が始まる。
- 栄光なるスペインの始まり、大航海時代とレコンキスタの完成
コンスタンツ公会議で教会大分裂がおわる
14年、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)ジギスムントの提唱で会議を開催。大シスマを平和裏に終了させた。
宗教改革の前哨戦
このころ、イングランドではウィクリフ、神聖ローマ帝国ではフスがローマ教皇の批判を行った。コンスタンツ公会議では、ウィクリフとフスは異端とされた。ウィクリフは、墓を暴かれ火あぶりにされた。フスも火あぶりで処刑された。19年、フスの出身地である神聖ローマ帝国のベーメン(現在のチェコ)で、フス派による大反乱がおきた。
ジャンヌ=ダルクの活躍でイングランドとの百年戦争に勝利
オレルアン公 VS ブルゴーニュ公
1380年、シャルル6世が即位。このころ、イングランドで内紛。百年戦争は終息方向に動いていた。しかし、1392年、シャルル6世が病に倒れる。この時、2大勢力による権力闘争が行われた。国王の弟オレルアン公と国王の従弟ブルゴーニュ公である。オレルアン公は南西部に強く、ブルゴーニュ公は北東部に強い。この権力争いは後継者争いに発展した。22年、ブルゴーニュ公はシャルル6世の娘を1399年に即位したイングランド国王ヘンリ5世と結婚させた。2人の子ヘンリ6世を英仏両国の王とした。これに対し、オレルアン公はシャルル6世の子シャルル7世を国王とした。これによりフランスは2人の王がいる状態になった。
百年戦争の構図は、オレルアン公VSイングランド・ブルゴーニュ公連合の構図となった。
救世主で悲劇のヒロイン、ジャンヌ=ダルク
12年、救世主となる少女が生まれた。ジャンヌ=ダルクである。28年、オレルアンはブルゴーニュ派に包囲された。翌29年、ジャンヌ=ダルクはオレルアンの囲みをといた。これにより、シャルル7世の戴冠式が可能となった。しかし、ジャンヌ=ダルクはブルゴーニュ派につかまる。31年、ジャンヌ=ダルクは処刑された。
フランス、百年戦争に勝利
53年、シャルル7世は百年戦争に勝利。イングランドの大陸領土は北フランスのカレーのみとなった。なお、カレーは1558年のイタリア戦争時にフランス領になる。シャルル7世は、二度とブルゴーニュ公のような反逆者が出ないように王権を強化した。一方で敗戦したイングランドは内紛が勃発。バラ戦争に突入した。61年ルイ11世が即位。
イタリア戦争開戦。ハプスブルクとの因縁と対立が始まる。
83年、シャルル8世が即位。94年フィレンツェのメディチ家が政権を失う。同94年、シャルル8世が、南イタリアのナポリ王国の王位継承権を主張。これに対し、ローマ教皇、神聖ローマ帝国皇帝(マクシミリアン1世)、スペイン国王(フェルナンド1世)などが反発。イタリア戦争が始まる。
栄光なるスペインの始まり、大航海時代とレコンキスタの完成
スペイン王国の成立とレコンキスタの完成
8世紀 イスラム勢力下に入る。
11世紀 国土回復運動(レコンキスタ)が始まる。
69年、カスティーリャ王国女王イザベルとアラゴン王子フェルナンドが結婚。
カスティーリャ王国 イベリア半島中部を支配
アラゴン王国 イベリア半島北部の国
バルセロナなどのカタルーニャ地方やイタリアの一部を領有
79年、スペイン王国が成立
意欲に(1492)燃えたコロンブス、新大陸を発見
45年 ポルトガル、アフリカ大陸最西端ヴェルデ岬を到達
88年 ポルトガル、アフリカ大陸最南端喜望峰を到達
→ インド洋へのルートを発見
92年 スペイン、コロンブスが新大陸<アメリカ>発見(大西洋横断)
→ レコンキスタ完成の年
94年 トルデシリャス条約
ポルトガル→ 大西洋の東(アフリカ、インド洋)
スペイン → 大西洋の西(新大陸<アメリカ>)
→ フランスがイタリアへ侵攻した年
98年 ポルトガル、ヴァスコ=ダ=ガマがインドに到達
次回予告
大シスマはなぜ起こったのか?
ローマ教皇の権威はなぜ落ちたのか?
イギリスとの百年戦争はなぜ始まったのか?
「14世紀のフランス カペー朝 教皇のバビロン捕囚と百年戦争」
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このころ日本は
このころ中国は