10世紀(901年~)、日本では遣唐使が廃止され源氏物語で描かれるような日本独特の文化が形成されたころである。
このころのイングランドは、アングロサクソン人が国王を務めていた。この時代からイングランドと呼ばれるようになった。また、ローマ教会も戴冠式を行い、イングランドを正式な国と認めた。
また、イングランドやフランス北部は、ヴァイキングの略奪行為に悩まされていた。
前回の復習 ノルマンコンクエスト
11世紀、フランスの有力諸侯ノルマンディ公ウィリアムがイングランドを征服。イングランド王となった。このころから、イングランドにもフランス文化が流入してきた。
今回からは、フランスとの交流が始まる前のイングランドの歴史を見ていきます。また、サイドストーリーとしてノルマン人の歴史も見ていきます。
アングロ=サクソン人の時代
アングロ=サクソン人とは
ノルマン人がイングランドを征服する前、イングランドを統治していたのはアングロ=サクソン人であった。アングロ=サクソンとは、アングリア(ドイツ北部のあたり)に住むサクソン人という意味である。大陸残ったサクソン人と区別するためにアングロ=サクソンと呼ばれるようになる。サクソン人もフランク王国のフランク人とおなじゲルマン民族である。
衰退期に入るウェセックス朝
当時、イングランドはウェセックス朝の時代である。ウェセックス朝は、8世紀後半のアルフレッド大王の時代に全盛期を迎える。ただ、9世紀アルフレッド大王が亡くなると衰退期に入り始める。
フランスでは、ノルマンディ伯国が成立
一方、フランスやドイツは、同じゲルマン人のフランク人が支配していた。フランク国は西フランク(フランス)と東フランク(ドイツ)に分裂していた。
この頃、フランス(西フランク)では、ノルマンディ伯国(のちのノルマンディ公国)が成立した。当時、フランス北部はノルマン人(ヴァイキング)の略奪行為に悩まされていた。フランスでは、同じノルマン人を傭兵としてヴァイキング退治にあたらせた。その中心人物がロロであった。
ロロは、フランス王からノルマンディ伯の地位を授かり、フランス北西部のノルマンディの統治を行うようになった。
一方、ドイツ(東フランク)では、カール大帝の時代から続くカロリング家が断絶。ザクセン人によるザクセン朝が成立した。
デーン人の侵攻
ヴァイキングの略奪行為
9世紀から12世紀にかけて、イングランドやフランス北部はヴァイキングの略奪行為に悩まされていた。ヴァイキングは操船技術にたけており、沿岸部だけでなく河川を利用して内陸部へも侵攻した。ヴァイキングの侵攻を受けた中にはフランスのパリも含まれていた。
ヴァイキングは、略奪行為で生計を立てていたわけではなく、交易で生活をしていた。彼らの拠点である北欧は穀物が取れない。そのため、木材や毛皮などを売って穀物を確保するしかない。これは中国の北方騎馬民族と同じである。そして、北方民族と同様、村を襲い略奪行為を行った。この頃の略奪行為は金品だけでなく人攫いも行った。攫われた人は、主にイスラム圏(スペインの後ウマイヤ朝やエジプトのファーティマ朝など)に売られたようだ。イスラム圏では異教徒は奴隷として扱うことは容認されている。
デーン人の侵攻
このころ、ヴァイキングの中心は、デーン人であった。デーン人の拠点は国名に残っている。デンマークである。10世紀になるとイングランドに定住するものもあらわれた。イングランド最大の都市ロンドンもデーン人に奪われた。
エドガー王の戴冠式
アゼルスタン王、ロンドンを奪回
アゼルスタン王は、アルフレッド大王(次回の主人公)の孫にあたる人物である。アゼルスタン王は、デーン人に奪われたロンドンを奪回した。
アゼルスタン王は、デーン人を制圧すると、内政に取り組み始めた。賢人会議と呼ばれる組織をつくった。賢人会議は、国会と裁判所を兼ねた組織で法律の制定や紛争の解決に当たった。
アゼルスタン王は、公式書面でウェセックス王ではなくイングランド王と名乗った。このころから、イングランドという言葉が使われ始めた。
それまで、イングランドはローマ時代の名称ブリタニアと呼ばれていた。しかし、この頃から、イングランドとよばれるようになった。イングランドとは、アングロ人の土地という意味がある。
余談だが、イギリスは、イングランドがなまった語源である。17世紀、徳川家康についた外交使節がイングランド出身であることから「イングランド=イギリス」との誤解が生まれた。ちなみに17世紀初頭はエリザベス女王の全盛期の時代である。実際、イングランドはイギリスの南部を表す言葉である。国名としてのイギリスは、UK(ユーケー)というのが一般的である。
エドガー王の戴冠式
アゼルスタン王が亡くなると、息子のエドガーがイングランド国王に即位した。エドガーは、盛大な戴冠式を行うことで内外にイングランドの地位を認めさせた。この戴冠式が行われたのは、ローマ時代から続く有名な温泉地バースの教会である。
この戴冠式によって、ローマ教皇とイングランド国王の結びつきが強まった。一方で、隣国アイルランドは修道院を中心としたキリスト教を信仰していた。そのため、そのため、アイルランドとイングランドは宗教面で対立するようになる。
3つの戴冠式(オットーの戴冠)
戴冠式で一番有名なのは、8世紀末のフランク王国カール大帝の戴冠式である。次に有名なのが東フランク王国(ドイツ)のザクセン公オットーの戴冠式である。この戴冠式が行われたのはエドガーの戴冠式が行われる少し前である。オットーは苦労人(962年)で覚えた戴冠式である。
10世紀後半、3つの戴冠式が行われた。東フランク王国(ドイツ)のオットーの戴冠式、イングランド王国のエドガーの戴冠式、そして、西フランク王国(フランス)カペーの戴冠式である。
彼ら3人には2つの共通点があった。1つは異民族の撃退で国民の人気が高い点である。オットーは、アジア系騎馬民族マジャール人(のちのハンガリー人)を撃退。エドガーは、、デーン人からロンドンを奪回。カペーは、パリ伯としてヴァイキングからパリを守った。当時のローマ教会は、東方正教会と分裂したばかりで民衆の人気を必要としていた。そのため、3人の国王を味方につけたかった。
もう一つは、王朝交代をしたばかりであることである。東フランク王国(ドイツ)では、カロリング朝からザクセン朝に移行したばかりである。また、西フランク(フランス)も、カロリング朝が断絶。カペーは、この戴冠式でカペー朝を開くことになる。また、イングランドも9世紀まで、アングロサクソン七王国の戦乱期で、最有力国はウェセックス国ではなくマーシア国であった。そのため、3人の国王は、世襲ではない国王の権威を必要としていた。それを実現したのが戴冠式である。これによってヨーロッパは王権神授説という考え方が登場した。
ちなみに、フランスは、この時代にカロリング朝が断絶。カペー朝が成立した。政治の中心もカペーが治めていたパリで行われるようになる。また、ノルマンディー伯もノルマンディン公に昇格した。
この頃の日本は
カペー朝が成立したフランスは
北方騎馬民族に悩まされた中国は