6世紀、日本に仏教が伝来したころである。同じ頃、イングランドにもキリスト教が伝来した。
アングロ=サクソン七王国の成立
アングロ=サクソン七王国(ヘプターキー)が成立したのは6世紀のことである。アングロ=サクソン人は主に3つの民族に分かれていた。アングル人、サクソン人とジュート人である。
アングル人はイングランド北部に拠点を置いた。ノーサンブリア王国(ノース+アングル+ブリタニア)、マーシア王国、イースト・アングリア王国を建国した。
一方、サクソン人は南部に拠点を置いた。エセックス王国(イースト=サクソン王国)、ウェセックス王国(ウェスト=サクソン王国)、サセックス王国(サウス=サクソン王国)を建国した。そして、ジュート人は、ロンドンのあるイギリス南東部にケント王国を建国した。
ベネディクト派がイングランドで布教を始める
ベネディクト派とは
ベネディクト派は、イタリア中部のモンテカシノ修道院を拠点としたキリスト教の一派である。モンテカシノは、厳しい戒律を守り、質素な生活を送っていた。その質素な食生活を象徴したのがベネディクトエッグである。
6世紀後半、ランゴバルド王国がイタリアへ侵攻すると、モンテカシノ修道院は破壊された。拠点を失ったベネディクト派はヨーロッパ全体に広がった。彼らは、ゲルマン人への布教を行った。
ゲルマン人とキリスト教
ゲルマン人の民族大移動は、2つのルートで行われた。ゴート人やランゴバルド人はバルカンから地中海沿いを進んだ。バルカン半島の北にはあるキリスト教組織とあう。ビザンティウムで異端とされたアリウス派である。そのため、南部のゲルマン民族はローマ人とは異なるアリウス派を信仰。アタナシウス派を信仰するローマ人と主教対立が頻発した。
一方で、北方のゲルマン民族であるフランク人やアングロ=サクソン人は、アリウス派を知ることはなかった。ベネディクト派が布教を行うと素直にこれを受け入れた。
ローマ教皇グレゴリウス1世
6世紀末、ベネディクト派のローマ教皇が誕生した。グレゴリウス1世の誕生である。グレゴリウス1世は、ゲルマン民族のキリスト教アタナシウス派への改宗をすすめた。グレゴリウス1世はゲルマン民族の国家に修道士を派遣。イングランドもその例外ではなかった。余談だが、日本に仏教が伝わったのも同じ6世紀の出来事である。
グレゴリウス1世は、ユスティアヌス帝が推し進めた帝国教会政策に反旗を翻し、独自路線を歩むようになった。これが7世紀の聖像禁止令問題へ波及する。
イングランドの宗教の中心、カンタペリ大司教
ベネディクト派はイングランド南東部のカンタペリに拠点を置いた。当時、カンタペリは、ジュート人のケント王国にある。ジュート人が最初にローマ=カトリックに改宗した。現在、カンタペリにはカンタペリ大聖堂が建っている。
ヨーロッパ南部ではユスティアヌス帝が地中海を再統一
ユスティアヌス帝は、ヨーロッパ南部のゲルマン人国家を次々征服。地中海を再統一した。この時に残ったのが、ヨーロッパ北部のゲルマン民族である。フランク北部のフランク人とイングランドのアングロ=サクソン人である。ユスティアヌス帝はキリスト教に大きな影響力を行使した。エジプトのコプト教会やシリア教会の単性論を異端とした。また、ユダヤ人の迫害を行い、ギリシャのアカメディアの閉鎖を行った。
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