10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

紀元前7世紀以前のインド インダス文明から都市国家群が成立するまで

 こんにちは、sekaishiotakuです。ついにインド編最終回です。最後は当然、インド四大文明インダス文明を見ていきます。

 

前回の復習 バラモン教の時代

 紀元前6世紀、インドの中心はインド北東部、ガンジス川の中下流域であった。この頃には障壁で囲まれた都市国家が形成された。ここではバラモン教が信仰されていた。また、バラモン教を通じて階級社会(ヴァルナ制)が構築されていた。

 今回は、インド北西部のインダス川流域に成立したインダス文明が、ガンジス川流域に移動していく過程を見ていきます。

インドの地理 インダス川ガンジス川

 インドの北部は標高8000メートル級の山脈がある。ヒマラヤ山脈である。ヒマラヤ山脈の雪解け水は東西2つの川を通じてインド洋にそそぐ。西のアラビア海に流れるのがインダス川で、東のベンガル湾に流れるのがガンジス川である。

世界四大文明 インダス文明

 インダス文明は、紀元前2600年頃、インド北西部のインダス川流域に成立した。有名な遺跡として、モエンジョ=ダーロやハラッパーが有名である。レンガ造りの建物が多いのが特徴である。彼らは、ヒンドゥー教徒同じく、牛を神聖なものとして扱っていたようだ。民族系統については不明である。このインダス文明は紀元前1800年ごとに滅亡した。

イラン(ペルシア)からアーリア人が侵入

  紀元前1500年頃、イラン(ペルシア)からアーリア人が侵入してきた。インド北西部のインダス川流域に拠点を築いた。これにより、先住民であるドラヴィダ人の多くは南インドへ移動した。このドラヴィダ人はタミル人の祖先とされている。


アーリア人北インドで農業を学ぶ

 紀元前1000年頃、アーリア人の一部が東へ進んだ。北インド中央部に進出した。現在のデリー周辺である。アーリア人はこのころ、先住民から農耕技術を学んだ。この頃から稲作を開始される。

 農具も、弱い青銅器から強い鉄製農具に替わった。これにより牛による農耕が可能になった。インドでは、主に稲作(米)が生産された。
 農業技術が向上すると、自分の食べる分以上の食料を生産できるようになった。それらの農産物は神にささげられた。これにより登場したのが宗教(バラモン教)である。その宗教を取り扱ったのがバラモン(聖職者)であった。寄付される食糧が多くなるとバラモンは農業を行わなくなるようになった。バラモンは自らを神聖化させるため、祭祀の内容をより複雑化させた。

 また、余剰農産物を蓄えるようになった。そうなるとそれを狙う盗賊も登場した。盗賊から身を守るため新たな職業が誕生した。それがクシャトリヤ(武士)である。

 こうして、アーリア人の世界に階級が発生した。

アーリア人都市国家を建設

 紀元前6世紀ごろになると、アーリア人はより肥沃な土地を求めてさらに東へ向かった。インド北東部、ガンジス川下流域へ進出した。彼らはこの地に定住するようになる。

 クシャトリヤは城壁を作り、その中に庶民を集めた。これがインド版の都市国家である。しかし、クシャトリヤ(武士)はバラモン(聖職者)の権威付けを必要とした。このような背景から、ヴァルナ制は、第一身分がバラモン(聖職者)、第二身分がクシャトリヤ(武士)となった。

 

 

 これで、インド編は終了です。2月からは、再び舞台を中東へ移し、オスマン帝国で名をはせたトルコの歴史を見ていきます。