紀元前7世紀から400年にわたった春秋・戦国の戦乱は、秦の始皇帝の中華統一によって幕を閉じた。しかし、始皇帝の急激な改革は、中華人民の信頼を得られなかった。そのため、秦王朝は統一後わずか15年の短命で終わった。しかし、始皇帝の政策は、漢王朝の基盤を支えることになった。
秦王朝の成立
紀元前7世紀からつづいた春秋・戦国の戦乱は西方の大国秦王朝の統一により紀元前221年に幕を閉じた。秦が中国を統一できた理由は、法家思想による高い統治システムと異民族との交流が考えられる。秦王である「政」は始皇帝を名乗った。彼の墓は、兵馬桶として世界遺産となっている。都は、周の最初の都鎬京(今の西安)においた。当時は鎬京と呼ばれていた。ちなみに漫画キングダムの舞台はこの時代である。
秦王朝は、どんな政治を行った?
秦の地方統治は、地方が旧敵国なので周王朝のような世襲のような封建制を引くことができなかった。そのため、中央から知事を派遣する形をとり、地方の有力者をまとめた。(中央集権体制)これを郡県制という。
また、秦は、諸子百家の中で法家の思想で治めていた。この考え方を簡単に説明すると法律で行動をしばり、法を破ったものには罰を与えるという考え方である。これにそぐ合わない思想は弾圧された。これが焚書坑儒である。とくに儒教は弾圧された。
対外政策では、南シナ海沿岸まで国土を拡大した。北方では、騎馬民族の匈奴を追い払い、万里の長城の修復で北方騎馬民族の再び侵入を防いだ。
また、この時代、文字や貨幣、重さや長さの単位などが統一された。
秦王朝の終焉 水滸伝の世界
しかし、急激な統一政策や戦争や土木工事の負担で国民の不満は絶頂に達した。紀元前210年始皇帝がなくなると、翌紀元前209年、全国規模の農民反乱(陳勝・呉広の乱)がおき、紀元前206年秦王朝は短命で倒れた。
このあと、秦王朝を倒したリーダー、楚の項羽と漢の劉邦が互いに争った。紀元前202年劉邦が勝利し、漢王朝が成立する。楚の項羽は、劉邦軍に囲まれたとき、敵軍から楚の歌が聞こえたことから四面楚歌という言葉が生まれている。
この時代について書かれたの歴史書が水滸伝である。