紀元前3世紀末、漢王朝が成立した。紀元前2世紀以降、漢王朝とローマ帝国という2大帝国が成立した。しかし、建国当初の漢王朝は絶対的な権力はなかった。しかし、呉楚七国の乱や武帝の海外遠征で強い皇帝権を確立していった。
漢王朝の成立
劉邦は、紀元前202年のちの西安(当時、咸陽とよばれた)に漢王朝を成立させた。
劉邦は、秦王朝とは違い多くの国の連合政権であるため、協力者に恩恵をもたらす必要があった。そのため、地方政策は周王朝の封建制と秦王朝の郡県制を併用した郡国制を採用した。都の中心部は、引き続き郡県制を継続し、地方は、封建制を採用した。
税制は、秦王朝同様、皇帝が農民を直接支配する体制がとられた。
紀元前200年、北方騎馬民族の匈奴(冒頓単于)に敗北。娘を冒頓単于に嫁がせ、毎年おくりものを送ることになった。屈辱的な和睦である。
中央集権化をすすめた呉楚七国の乱
紀元前154年、漢王朝は、諸侯(封建制の地方長官)の権限を縮小させようとした。これに反発した諸侯が反乱(呉楚七国の乱)を起こす。これを漢王朝は鎮圧した。その結果、地方政策は事実上秦王朝時代の郡国制(中央集権体制)に近いものとなった。
最大版図を獲得した武帝
紀元前141年に即位した武帝は、積極的な対外戦争を繰り返した。
西方、北方では北方騎馬民族匈奴(きょうど)を撃退。西北にある中央アジア(タリム盆地)まで支配領域を広げた。このタリム盆地は、ヨーロッパ(ローマ帝国)、イラン(パルティア)、インド(クシャーナ朝)への重要な交易拠点であった。
東方では、秦王朝を撃退した朝鮮を支配下に入れた。
南方では、秦王朝滅亡時に独立したベトナム北部(南越)を支配下に入れた。
武帝は、民衆の支持を得るため、秦王朝が弾圧した儒教を重んじた。
官僚採用制度が地方役人による推薦による郷挙里選(きょうきょりせん)である。これは、儒教思想にもとづいて判断された。この時代、中央集権化に伴い大量に地方の役人を採用したり、海外遠征の指揮官の需要が高まった。
また、官僚の増加や戦費の増大で財政がひっ迫したそのため、塩などの専売を行った。