遣唐使が廃止された結果、日本独自の文化が形成された。それまでは、中国の騎馬民族のようなぴっちりした服装が正装とされていたが、十二単などのようなふわっとした服装が主流になった。また、寝殿造りという日本風の建築様式もこの時代に発達した。土佐日記や竹取物語(かぐや姫)などのひらがな文学も登場した。古今和歌集が編纂されたのもこの時代です。
この時代になると、国司の圧政や兵役義務などで逃亡農民の増加で口分田はほどんどなくなり、政府の税収はほとんどなくなっていた。そのため、軍事機能や警察機能はほとんどなくなっていた。京都は検非違使などの臨時の役職で治安を維持したが、地方は、警察機構がなくなり、農民が自ら武装して治安を維持した。のちの武士の起こりである。
一方で藤原氏は、国司(今の知事)の任命権や荘園からの収入でかなりの財力を持っていた。皇后が基本的に藤原氏の娘がなるようになり、藤原氏が要職を担うようになった。
当時、中小貴族は、国司となって地方で稼いで、有力貴族に賄賂を渡して再度国司になろうとした。時代が進むと有力な貴族は水から地方へ行かず、代理の者を生かせるようになった。一方で、中小貴族は、任期が終わっても京都へ戻らずそのまま土着するものもあらわれた。10世紀前半には、旧国司の平将門が関東で挙兵して鎮圧している。関東では、京都の圧政からの解放に尽くした英雄とされ、神田明神として祀られている。