10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1770年代のイギリス アメリカ独立戦争勃発

 日本は江戸時代後期、田沼意次が老中になったころである。このころ、イギリスは、アメリカ独立戦争の真っただ中にあった。当初、フランスなどのヨーロッパ諸国は中立の立場をとっていた。しかし、アメリカが互角に戦えるとわかると、フランスが参戦。イギリスはヨーロッパ諸国を敵に回すことになった。

 

 

前回の復習 アメリカ独立戦争勃発

アメリカ独立戦争の構図は、イギリス対アメリカ、フランスなどヨーロッパ諸国の争いであった。イギリスは、この戦争に敗北すると、アメリカ13州の独立を認めることはもちろん。ルイジアナ東部をアメリカに割譲した。また、西インド諸島やフロリダは、フランスやスペインに割譲した。これにより、イギリスの拠点は、カナダのみとなった。

なぜ、アメリカ独立戦争が始まったのか。

七年戦争

 70年代のイギリスは、七年戦争の戦費で財政が苦しくなっていた。そのため、イギリスは七年戦争で獲得したインドとアメリカでの収益で財政を立て直そうとした。

 イギリスのアメリカでの植民地は、東海岸の13州のみであった。アパラチア山脈の西のアメリカ中央部は、フランスの植民地であった。この地域はルイジアナと呼ばれた。この13州も北と南で植民地の成り立ちが異なっていた。アメリカの北部は、ピューリタンが移住していた。一方、アメリカ南部は、アメリカで一旗揚げようとしたイギリスの貧困層が移住した。
 七年戦争の結果、ルイジアナの東半分はイギリス領になった。

代表なくして課税なし(印紙税

 トーリ党のノース首相は、アメリカに印紙税を導入。しかし植民地人の反対にあい、すぐに撤回された。この時、南部のヴァージニア植民地議会は、印紙法反対決議を行った。その時の演説で出たのが「代表なくして課税なし」である。 

ボストン茶会事件

 73年、トーリ党ノース首相は茶法を制定した。この法律で、イギリス東インド会社は新大陸(アメリカ)で茶の独占販売権を獲得した。これに北部のアメリカ人が反発。急進派が暴徒と化し、ボストン港にあるイギリス東インド会社の船舶を襲撃。

 これに対し、イギリス政府は武力でボストン港を閉鎖。ボストンのあるマサチューセッツ州自治権と取り消した。

アメリカ独立戦争

開戦、レキシントンの戦い

 ボストン茶会事件の翌年74年、13植民地は第1回大陸会議を開催。あらためて、植民地の自治を要求。75年、イギリス本国とアメリカ植民地政府の交渉が決裂。アメリカ独立戦争が勃発した。レキシントンの戦いである。レキシントンの戦いの後、大陸会議が開かれ、ワシントンを総司令官に指名した。

アメリカ独立宣言

 アメリカ植民地軍は、76年7月4日、北部ペンシルベニア州フィラデルフィアアメリカ独立宣言を発表した。フランスなどヨーロッパ諸国の支援を求めるためである。アメリカ独立戦争の正当化のためにジョン=ロックの思想(革命権)を参考にした。しかし、フランスは武器の提供のみにとどまった。それでも、フランスのラ=ファイエットやポーランドコシューシコ義勇軍としてアメリカ側で参戦した。

転換点、サラトガの戦い

77年10月の サラトガの戦いでイギリス軍が大敗すると、戦局は大きく転換した。翌78年、ブルボン朝フランス(ルイ16世)が正式に参戦。79年には、ブルボン朝スペインがアメリカ側で参戦。80年、オランダがアメリカ側で参戦した。同じ80年、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で、武装中立同盟が東欧諸国で形成された。この同盟にはプロイセンが参加した。

インドでは、第2次マイソール戦争

 このころ、インドでは、南インドマイソール王国マラーター同盟を結成。フランスとも同盟を結び、80年第二次マイソール戦争が勃発した。

ゴードン暴動

  78年、カトリック教徒への一部差別撤廃法が成立。これは、カトリック教徒が多いアイルランド人への配慮のための法律である。

 これに対し、ロンドンでは、この法案に対する反対運動が起こった。これがゴードン暴動である。イングランド人にとって、カトリックは、2つの悪の象徴である。1つは、名誉革命以前の悪しき王が、カトリック教徒であったこと。2つ目は、現在、植民地植民地戦争を行っているフランスがカトリック教国であることである。

 

産業革命

 70年代、クロンプトンがミュール紡績機を完成。紡績技術(綿花から糸をつむぐ技術)の産業革命はここで終結した。これにより、綿糸の価格が大幅に下落。織布業(糸から布を作る産業)への参入が相次いだ。これが80年代のカールライトの力織機につながる。

 クロンプトンのミュール紡績機は、60年代の2つの産業革命の結果を利用している。1つ目は、ハーグリーヴズのジェニー紡績機である。ジェニー紡績機は多軸式で最高80本の糸を同時に作ることができた。もう一つは、アークライトの水力紡績機で、ジェニー紡績機は、水力を使うことで楽にかつ強い糸を作ることができた。

 

この頃の日本は

 

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 このころのインドは

 

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 18世紀のヨーロッパは

 

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