1980年代、日本は中曽根首相の時代で、バブル景気へ向っていたころである。このころ、ソ連のアフガニスタン侵攻で東西冷戦は再び激化していた。
この頃、中東ではイラン=イラク戦争が勃発していた。トルコでは軍事クーデターが発生。憲法が改正された。ギリシャは、ECに加盟した。
前回の復習 80年代後半のトルコ・ギリシャ
80年代後半、中東ではイランイラク戦争が終結。バルカン半島では東欧革命が進んでいた。
今回は、80年代前半のトルコ・ギリシャの状況とイランイラク戦争の発生要因についてもみていきます。
80年代前半のトルコ・ギリシャ
トルコで軍事クーデター
80年、トルコで軍事クーデターが発生。憲法改正が行われた。治安と経済が改善し、民政移管が行われた。ただ、クルド人問題によるテロが頻発し、いまだ安全な生活が営めない状況が続いている。
ギリシャECに加盟
ギリシャは、スペイン、ポルトガルとともに81年EUの前身ECに加盟した。これにより、EC加盟国は12か国となった。
ギリシャの総選挙で、カリマンリス首相率いる親アメリカ派の新民主主義党が敗北。親ソ派の全ギリシャ社会主義運動が政権を握った。全ギリシャ社会主義運動は、外交政策を転換せず、EC及びNATOの加盟を継続した。
北キプロス独立宣言
83年、北キプロスに住むトルコ系住民がキプロス共和国から独立を宣言した。北キプロス・トルコ共和国である。しかし、2020年2月現在、この国を承認しているのはトルコのみである。
イラン・イラク戦争
米ソ冷戦最終章
79年、ソ連のブレジネフ書記長はアフガニスタンへ侵攻した。これにアメリカは激怒した。翌80年大統領選挙では、平和外交を推進する民主党カーター大統領が敗北。強いアメリカを主張する共和党レーガン大統領が誕生した。80年代は冷戦の最終章となった。この冷戦を象徴するのが80年のモスクワオリンピックのボイコットである。
80年の中東情勢
79年のイラン革命で、親米的なパフレヴィー朝が崩壊。イラン=イスラム共和国が成立した。イランは孤立化した。このころ、イラクではソ連離れが始まった。フセイン大統領の登場である。レーガン大統領は、フセイン大統領を積極的に支援した。
イラクは、ペルシャに近いため中東では珍しくシーア派が多い地域である。しかし、フセイン大統領率いるバース党はスンニ派の政党である。そのため、スンニ派の盟主であるサウジアラビアは積極的にフセイン大統領を支援した。
イラン=イラク戦争勃発
フセイン大統領は、国際的に孤立しているイランへ侵攻した。標的はイラン西部の油田である。イラン=イラク戦争の始まりである。
各国の思惑
イラクは多くの国の支援を受けた。中東ではサウジアラビアなどスンニ派国家が支援した。また、イランの石油利権が欲しい欧米諸国も積極的にフセイン大統領を支援した。石油利権についてはソ連も狙っていた。ソ連もフセイン大統領を支援した。
周辺諸国の状況
ティトー大統領の死
バルカン半島のユーゴスラヴィアは、70年代ティトー独裁体制から集団指導体制へ移行した。このティトー終身大統領も80年に亡くなった。80年代に入ると東欧諸国は不況に見舞われた。これにより、東欧諸国の民主化要求は高まった。ユーゴスラヴィアもれいがいではなく、ティトーの死をきっかけに民主化運動が激化した。
エジプト、ムバラク政権
イスラエルと和平を結んだエジプトのサダト大統領であったが、81年に暗殺された。その後誕生したのがムバラク大統領である。2011年のアラブの春まで長期政権を築く。
ムバラク大統領は、アメリカとの経済的結びつきを強めた。イスラエルとの和平でアラブ諸国との関係は悪化していた。そのため、ムバラク大統領はアラブ諸国との関係改善に努めた。その結果、89年にアラブ連盟に復帰した。
イスラエルのレバノン侵攻
レバノンは、中東の東部、地中海沿岸の国である。北にはシリアが、南にはイスラエルがある。当時レバノンは、キリスト教勢力とイスラム勢力の内戦状態にあった。
イスラエルとの和平で苦境に立たされたのはPLO(パレスチナ解放機構)である。PLOは、拠点をヨルダンからレバノンに代えていた。これに対し、イスラエルは首都ベイルートを空爆した。PLOは、レバノンを撤退し北アフリカのチュニジアに撤退した。
この頃の日本は
イラン=イラク戦争とは