第二次世界大戦は、1939年に始まり、1945年に終戦した。
今回のメインテーマは、独ソ戦開戦前のナチスドイツのバルカン半島への侵攻をみていきます。
前回の復習 ギリシャ内戦と東西冷戦
第二次世界大戦の終戦が近づくと東西冷戦が始まった。ギリシャでは、親米派の国王派と親ソ派の共産党の内戦が勃発した。
今回は、前半ではギリシャとトルコの視点から第二次世界大戦を見ていきます。後半では、東西冷戦の前哨戦であるイギリスとロシアの交渉過程をバルカン半島を中心に見ていきます。
第2次世界大戦の復習
第二次世界大戦を簡単にまとめるとこのようになる。
39年、独ソによるポーランド分割
41年、独ソ戦が始まり、ソ連はイギリスと連携。
42年、ドイツが劣勢に
43年、戦後秩序について、イギリスとソ連がたびたび会談
45年、ドイツ降伏
詳細は、イギリス史編の「1940年代前半のイギリス チャーチル首相と第二次世界大戦」を参照してください。今回をこの流れを踏まえた上で、当時の中東とバルカン半島の歴史を見ていきます。
バルカン半島からみる第二次世界大戦
第二次世界大戦初期のバルカン半島
当初、バルカン半島へ侵攻してきたの枢軸国のイタリアであった。ユーゴスラヴィアやギリシャは、協力関係にあったフランスに支援を求めた。しかし、当時イギリスとフランスはドイツ・イタリアよりもソ連を警戒ししていた。そのためイタリアの行動を黙認していた。
ギリシャは、当時右翼軍事政権が成立していた。そのような中、40年10月、ギリシャはイタリアの侵攻を受けた。ギリシャはこれに抵抗した。41年3月、ドイツ軍がソ連を警戒してバルカン半島東部のルーマニア、ブルガリアへ進駐。41年6月の独ソ戦をすでに視野に入れていた。イギリスは、バルカンに進出したナチスドイツを警戒。ギリシャを本格的に支援した。これにより、ギリシャはイタリア軍を撃退した。
ナチスドイツのバルカン半島侵攻
ユーゴスラヴィアは、当初親ナチス政権が統治しており、ドイツ側で参戦していた。しかし、軍のクーデターで親イギリス政権に替わった。41年4月、ドイツ軍は、ソ連侵攻を延期し、ユーゴスラヴィアへ向った。40年6月にフランスはナチスドイツの支配下に入ったため、ユーゴスラヴィアはソ連へ支援を求めた。しかし、ソ連はこれにこたえることができなかった。そのため、ユーゴスラヴィアは戦後ソ連と一線を画す政策をとることになった。この戦争で活躍したのがティトーであった。
41年4月、ユーゴを下したドイツ軍は、そのままギリシャへ向った。ギリシャはクレタ島へ撤退した。ギリシャは枢軸国のドイツ、イタリア、ブルガリアによって分割統治された。41年5月、ドイツ軍はクレタ島を制圧。バルカン半島はナチスドイツの支配下に入った。そして、41年6月、ドイツはソ連へ侵攻した。
その後、主戦場がバルカンから北アフリカへ移ったため、バルカン半島の人々はゲリラ戦でナチスドイツと戦った。彼らを支援していたのがソ連(コミンテルン)であった。このゲリラ戦で活躍した英雄たちが、第二次世界大戦後、親ソ政権として独裁を引くようになる。
中東とトルコから見る第二次世界大戦
トルコ共和国は第二次世界大戦では中立の立場をとっていた。しかし、45年ドイツ敗北が濃厚になると対独参戦を表明した。
ナチスドイツが、シリアからレバノンを分離
フランスは、40年6月ナチスドイツに降伏した。ナチスドイツの傀儡政権であるヴィシー政権は、シリアからキリスト教徒の多いレバノンを分離させた。
フランスは、シリアの独立を正式に認めた。その際、キリスト教徒の多いレバノンとイスラム教徒の多いシリアを分離して独立させた。
パーセンテージ協定 イギリスとソ連のバルカン半島分割交渉
ドイツがソ連から撤兵を始めると米英ソで戦後構想についての首脳会談がたびたび開かれた。その最初の会談は、43年11月のテヘラン会談である。
イギリス首相チャーチルとソ連のスターリンがアメリカのFルーズベルト大統領抜きでモスクワにて会談。バルカン半島の分割について協議された。44年10月のことである。その会談の内容は以下の内容である。
東部
ルーマニア ソ連 90%、イギリス 10%
ブルガリア ソ連 75%、その他の国 25%
西部
ユーゴスラヴィア イギリス 50%、ソ連 50%
ハンガリー イギリス 50%、ソ連 50%
この頃の日本は
このころのフランスは
このころのソ連は