1810年代のオスマン帝国 ムハンマド=アリーとセルビア独立運動
1810年代、日本は江戸時代後期。化政文化が花開いていたころである。ヨーロッパでは、ナポレオン戦争が終結。ウィーン会議で新体制が整った。
18世紀前半のオスマン帝国は、ムハンマド=アリーを軸に動いていた。この時期、ムハンマド=アリーの功績で、ワッハーブ王国(サウジアラビア)を滅ぼした。
前回までの復習
14世紀に建国したオスマン帝国は、19世紀衰退期を迎えていた。20年代のギリシャ独立戦争と30年代のエジプト=トルコ戦争に敗北。オスマン帝国は、改革の必要性を認識した。これがタンジマートにつながる。
ナポレオン戦争後のエジプトとムハンマド=アリー
ムハンマド=アリーは、エジプト戦争の功績を受けてエジプト総督(パシャ)についた。18世紀までのエジプトは、マムルークに統治を任せていた。ムハンマド=アリーはマムルークを一掃した。エジプトのアラブ人と直接支配するようになった。
また、スーダン(エジプトの南)へ遠征。エジプト人やスーダン人の黒人を利用した新しい軍隊を作った。ムハンマド=アリーは、ヨーロッパへ留学生を送り近代化政策を進めた。
ワッハーブ王国からメッカメディナを奪還
ワッハーブ王国は、サウジアラビアの前身となるアラブ人国家である。18世紀の半ばにオスマン帝国ら独立、イスラム教の聖地であるメッカとメディナを征服した。
オスマン帝国は、エジプトのムハンマド=アリーと連携してワッハーブ王国を滅亡させた。サウード家はクウェートへ逃亡した。20年代のエジプト=トルコ戦争期にワッハーブ王国は復活した。
第一次セルビア独立運動
この頃、バルカン半島ではセルビアの独立運動が勃発した。ナポレオン戦争が終結すると全勢力がバルカン半島へむかった。これにより、セルビアの独立運動を沈静化した。しかし、セルビア人の民族意識は高まった。
第二次セルビア独立運動
第一次セルビア独立運動が失敗すると、運動方針が転換された。セルビアの独立ではなく自治権の獲得に向かった。ここから、セルビア人とオスマン帝国の交渉が始まった。この時、セルビア人は、同じスラブ人のロシアの支援を仰いだ。一方、オスマン帝国は、同じ多民族国家のオーストリア(ハプスブルグ家)に支援を仰いだ。
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この頃の日本は