10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

13世紀のロシア キプチャクハン国 バトゥのヨーロッパ遠征

 13世紀はモンゴルの世紀である。ロシアも例外ではない。ロシアはこの時代にモンゴルに征服された。その時に建国されたのがキプチャクハン国である。

 今回は、キプチャクハン国の建国者、バトゥを中心に13世紀のロシアの歴史を見ていく。

 

バトゥのヨーロッパ遠征以前の状況

第4回十字軍でビザンツ帝国は一時遷都

 第4回十字軍は、北フランスの諸侯を中心に結成された。そのため神聖ローマ帝国を通過できないため、海路によってエルサレムを目指した。その船を手配したのはヴェネツィア商人であった。その代償としてヴェネツィア商人は商売敵のビザンツ帝国への侵攻を依頼した。

 04年、第4回十字軍はビザンツ皇帝をビザンティウム(現在のイスタンブール)から追放。ラテン帝国を建国した。ローマのカトリック教会は第4回十字軍をすぐに破門した。しかし、敵対するギリシア正教会のビザンツ皇帝に勝ったとしてすぐに破門をといた。

 61年、ビザンツ帝国ビザンティウムを奪還した。

東西の強敵

 一方、ロシアはキエフ公国の時代である。13世紀、このキエフ公国は東西に2つの敵にはさまれていた。西のドイツ騎士団と東のモンゴル騎馬民族である。

 ドイツ騎士団とは、1190年第3回十字軍の時に結成された宗教騎士団である。第3回十字軍が終わるとバルト海沿岸やポーランド北部へ侵攻して、開拓を行った。この国がのちのプロイセン(ドイツ)になる。

チンギス=ハンの中央アジア侵攻

 06年、チンギス=ハンはモンゴルを統一した。トルコ(小アジア)で第4回十字軍がラテン帝国を建国した2年後のことである。

 14年、中国北部の金王朝から北京を奪う。

 20年、中央アジアの西遼を滅亡させる。

 27年、中央アジア西夏を滅亡させる。

 27年、西夏の遠征中に、チンギス=ハンとその長男ジュチが亡くなる。

バトゥのヨーロッパ遠征

 バトゥは、チンギス=ハンの孫で、長男ジュチの息子である。ジュチ家は人気が高かったが、ジュチ自身がチンギス=ハンの息子ではないとの噂があり、バトゥはハン(国王)になることはできなかった。

 29年、クルリタイ(次の国王を決める会議)を開催。三男オゴタイ=ハンが即位した。

 36年、オゴタイ=ハンは、ヨーロッパ遠征を決定
    総司令官にバトゥを指名。副司令官に3代目ハンになるグユウ、4代目ハンになるモンケが選ばれていた。

 37年、カスピ海北部を制圧
    戦場となったのがキプチャク草原である。

ロシアへの侵攻

 13世紀以前のロシアの大国は、キエフ公国であった。キエフ公国はギリシャ正教会を信仰、ビザンツ皇帝とも親戚関係にあった。

 しかし、12世紀になるとロシアは分裂状態になる。また、04年の第4回十字軍でビザンツ帝国が敗北。ビザンツ皇帝に頼ることができなかった。バトゥはこの分裂状態のロシアを各個撃破しロシアを再統一した。

 38年、北部ロシアを制圧

 39年、カフカス地方(カスピ海黒海の間)へ侵攻
    この時の論功行賞でグウクともめる。
    そのため、グユク、モンケはモンゴルへ帰国した。

 40年、キエフ公国(黒海北部、今のウクライナ)制圧

東欧への侵攻

 40年、バトゥはロシアの首都キエフ公国を制圧すると、東欧遠征に乗り出した。
 バトゥは、西スラブ人のポーランド王国とアジア系騎馬民族ハンガリー王国へ侵攻した。

 ヨーロッパにとっては、4世紀のフン人、7世紀のブルガリア人、10世紀のハンガリー人に続く4番目のアジア騎馬民族の侵攻となる。

41年4月、ワールシュタットの戦い

 バトゥは、ドイツ騎士団ポーランド王国連合軍に大勝した。
 この戦闘結果は、全ヨーロッパに広まった。十字軍真っ只中のローマのカトリック教会は、モンゴルへ使者を送った。 

 

キプチャク=ハン国の建国

オゴタイ=ハンの訃報

 41年12月、オゴタイ=ハンが亡くなる。翌42年3月、東欧と戦闘中のバトゥへもその訃報が入る。この時、バトゥ軍はハンガリーをほぼ制圧。ウィーンの目の前まで迫っていた。ちなみに、16世紀にオスマン帝国は本当にハンガリーを制圧しウィーン包囲を実施してしまう。

次の皇帝はだれか

 オゴタイ=ハンが亡くなると、3代目ハンをめぐりオゴタイ家のグユクとトゥルイ家のモンケで対立した。順調にいけばグユクになるのは当然であった。しかし、モンゴル帝国内で発言力が高くなったバトゥはこれに反対した。それは、ロシア遠征時の論功行賞問題である。そのため、バトゥはともにロシア遠征を戦ったトゥルイ家のモンケを推挙した。

 この対立により、皇帝不在の状況が5年続いた。46年、ついにオゴタイ家のグユクがハンが即位した。バトゥはこれに反発。グユクが皇帝の期間、一度もモンゴルへ戻ることはなかった。この対立により、ジュチ家・トゥルイ家とチャガタイ家・オゴタイ家が対立するようになる。

モンケ=ハンの即位と陰の実力者バトゥの死

 48年、グユク=ハンは、バトゥ討伐軍を編成した。しかし、同48年4月グユク=ハンは急死。ジュチ家とオゴタイ家の内戦は回避された。バトゥはすぐにトゥルク家のモンケをハンに即位させた。56年、カスピ海の北、キプチャク草原のサライで、バトゥは亡くなった。

キプチャクハン国とは

 バトゥは、カスピ海の北キプチャク草原のサライに拠点を置いた。そのため、バトゥの支配流域はキプチャクハン国と呼ばれる。その支配領域はロシアから中央アジアにまで及んだ。

 

このころの日本は

 

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 第4回十字軍に参加したフランスは

 

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 モンゴル帝国

 

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