10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

16世紀のフランス ヴァロワ朝 ユグノー戦争でブルボン朝が成立

日本が戦国時代で織田信長豊臣秀吉が活躍した16世紀。ヨーロッパは近代が始まった。大航海時代ルネサンス、そして宗教改革である。

16世紀前半は、カール5世の大帝国の時代である。カール5世は、新大陸、スペイン、イタリア南部、ドイツとアジア地域以外の大部分を支配した。これに対抗したのがフランスのフランソワ1世とオスマン帝国のスレイマン1世である。

16世紀後半になると、カール5世の脅威が亡くなると、次は宗教改革の波が押し寄せた。ユグノー戦争である。ユグノー戦争はオランダ独立戦争とあいまって泥沼化。17世紀前半の不況の原因となった。

 

 近代が始まる16世紀

大航海時代と価格革命

15世紀の状況

 15世紀末、スペインはコロンブスが新大陸(アメリカ)を発見。ポルトガルはヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰経由のインド航路を開拓した。また、ローマ教皇は、大西洋の西(新大陸)をスペインの勢力圏、大西洋の東をポルトガルの勢力圏とした。

アジアに拠点を築くポルトガル

 00年、新大陸の南米ブラジルを発見。ここに拠点を築く。現代でもブラジルはポルトガル語圏であるのはこのためである。

 ポルトガルは、アジアに貿易網を構築した。10年、インドのゴアを占領。11年東南アジア(マレーシア)のマラッカ王国を征服。インド洋と南シナ海を結ぶマラッカ海峡を支配した。36年、香辛料の産地モルッカ諸島を制圧。当時の香辛料は銀と同等の価値があった。これにより首都のリスボン港は繁栄した。43年、日本の種子島に到着。(鉄砲伝来)。57年、明王朝からマカオ居住権をえる。

新大陸を植民地化するスペイン

 01年、イタリア人のアメリゴ=ヴィスブッチが南米を探検。新大陸がアジアではなくアメリカ大陸であることを発見する。13年、バルボア、太平洋を発見。19年、ポルトガル人のマゼランが世界一周にチャレンジ。スペイン国王カルロス1世が支援した。20年、マゼラン、マゼラン海峡を発見。21年、コルテスがメキシコのアステカ王国を征服。21年、マゼランはフィリピンを発見。ちなみにフィリピンは当時の皇太子フィリペ2世から名前をとっている。34年、コルテスがペルーのインカ帝国を征服。45年ペルーでポトシ銀山を発見。65年、フィリピンを征服。アジア貿易の拠点を築くとともに、明王朝に大量な銀が流入

価格革命で騎士が没落

 45年、新大陸でポトシ銀山が発見されると、ヨーロッパに大量な銀が流入した。そのため、ヨーロッパでインフレ(物価高騰)が発生。とくに穀物価格が高騰した。フランスの農民は銀で地代を払っていたため、豊かになった。一方、銀の地代で生活した騎士は困窮した。

宗教改革

宗教改革のきっかけ、贖宥状(免罪符)とアビニョン教皇庁

  06年、ローマ教皇ユリウス2世がローマ(バチカン市国)のサン=ピエトロ大聖堂の改築を進める。しかし、アナーニ事件でフランスからの資金流入がなくなっていたため、財政は厳しかった。13年、メディチ家出身のレオ10世が即位すると贖宥状の販売を開始した。

ドイツで始まったルター派、諸侯に受け入れられる。

 贖宥状の販売が開始されると、17年ルターは、95か条の論題を発表。ローマ教会を批判した。これに対し、神聖ローマ帝国皇帝カール5世は保護しなかった。しかし、ザクセン侯など多くの諸侯が、ルターを保護した。これにより、神聖ローマ帝国は皇帝などローマ教皇側とザクセン侯などのルター派に分裂した。55年、アウクスブルクの和議で諸侯の宗教の自由が認められた。しかし、この時容認されたのはルター派のみである。

イングランド国王、イギリス国教会を作る。

 イングランドでは、ヘンリ8世の離婚問題が発生した。当時の離婚は、教会の許可が必要であった。しかし、ローマ教会はこれを認めなかった。その理由はヘンリ8世の妻がスペイン王女であったためである。ヘンリ8世は、これに怒り、34年首長法を成立。イギリス国教会が成立。教会の財産はすべてイングランド王室が没収した。

商人の宗教カルヴァン派、各地で革命を起こす。

 カルヴァン派は、当時ハプスブルクの領土であったスイスで誕生した。勤労や禁欲を奨励したカルヴァン派は多くの商人の支持を得た。スイスやオランダでは、各国の独立運動に参加。イギリスではピューリタンと呼ばれ、1642年ピューリタン革命を引き起こす。また、フランスではユグノーと呼ばれた。ユグノーの活躍はこの後のお話。

対抗宗教改革、トリエント公会議イエズス会

 34年、フランスパリでイエズス会で結成。アジア・ラテンアメリカで布教活動を行う。この年は、イギリスで首長法が成立した年である。49年イエズス会のザビエルが日本で布教を開始する。

 45年~63年、トリエント公会議が開かれる。ローマ教会の改革が行われるとともに教皇至上主義を再確認した。55年には神聖ローマ帝国アウクスブルクの和議が結ばれる。

イタリア戦争とカール5世

フランス王フランソワ1世

 1494年、フランス国王シャルル8世がイタリア戦争を始める。1498年ルイ12世が即位。15年、フランス国王フランソワ1世が即位。

 フランソワ1世は、19年カール5世が神聖ローマ帝国皇帝に就任すると、オランダ、神聖ローマ帝国(ドイツ、スイス・オーストリア)、スペイン(イタリア、スペイン)で完全に囲まれてしまった。その状況を打開するため、21年イタリア侵攻を進める。イタリアに領土を拡大することはできなかった。しかし、イタリアルネサンスがフランスにもたらされた。レオナルド=ダ=ヴィンチがフランスに向かったのもこのころである。

 前20年、イングランドのヘンリ8世と同盟を結ぼうとしたが失敗。21年、イタリアに侵攻。しかし、25年国王が捕虜になる大敗。屈辱的条約を締結する。35年、オスマン帝国のスレーマン1世と同盟。この時、エジプトなどのオスマン帝国諸都市の通商特権(カピチュレーション)をえた。

 一方、このころ北米の探検も進んだ。カナダのケベック州の植民地の基礎を築いた。

 42年、アンリ2世が即位。

フランソワ1世の最大のライバル カール5世

00年、ブルゴーニュ公爵残して生まれる。その時の領土はフルゴーニュ(フランス南東部)とフランドル地方(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)であった。

16年、スペイン国王に即位。当時のスペイン国王は、南イタリアナポリ王国の国王を兼任していた。

19年、ドイツ国王になる。フランス国王フランソワ1世を選挙で破り神聖ローマ皇帝に即位。
同19年、ポルトガル人のマゼランを世界一周に派遣。

20年、スペインのカタルーニャバルセロナ周辺、旧アラゴン王国)で反乱
    → 現在でも、カタルーニャ地方は独立運動が起きている。
21年、ドイツ、ヴォルムス帝国議会で、ルターを国外追放
   スペイン、コルテスがアステカ王国(メキシコ)を征服

22年、マゼラン船団が帰国

24年、ドイツ農民戦争が始まる。

25年、イタリア戦争が開戦。フランスに大勝

26年、オスマン帝国ハンガリーを奪われる。

27年、フランスと結んだローマ教皇クレメンス7世を攻める。

   イングランドのヘンリ8世の離婚に反対。

29年、シュバイエル帝国議会で再びルターを否定。

   ローマ教皇クレメンス7世と和睦

   スレイマン1世、ウィーン包囲。
    → カール5世の弟、フェルディナンド1世が対応

30年、フィレンツェを征服

   ローマ教皇クレメンス7世から戴冠を受ける。

33年、スペイン、ピサロインカ帝国(ペルー)を征服

34年、スペイン、北アフリカチュニジアオスマン帝国より奪回

38年、プレヴェザの海戦でオスマン帝国海軍に敗北

44年、フランスと講和

45年、スペイン領インカ帝国(ペルー)でポトシ銀山を発見

   トリエント公会議を招集

46年、ルター派諸侯たちが皇帝に宣戦。(シュマルカルデン戦争)

51年、オスマン帝国ハンガリーへ再び侵入。

52年、フランスのアンリ2世、神聖ローマ帝国に参戦

54年、実子のちのフィリペ2世、イングランド女王メアリ1世と結婚

55年、アウクスブルクの宗教和議
    諸侯のルター派の容認。

56年、カール5世引退

    スペイン=ハプスブルク家オーストリアハプスブルク家に分裂

   スペイン=ハプスブルク家
    息子フィリペ2世が相続
     スペインの他、
      フランドル地方(ドイツなど)、ナポリ王国南イタリア
      新大陸
     妻は、イングランド女王メアリー1世

   オーストリアハプスブルク家

    弟、フェルナンド1世が相続
     神聖ローマ皇帝の地位と
     オーストリア(ドイツの南)の領土を相続した。
   

フランソワ1世の最大の協力者スレイマン1世

  オスマン帝国は、1453年にビザンツ帝国を滅ぼしたトルコ人イスラム教国。スレイマン1世が即位したころには、現在のトルコの領域の他、エジプト、アラブ、シリア、バルカン半島を支配していた。

 20年、スレイマン1世はスルタン(国王)に就任。バルカン半島の北ハンガリーを征服。29年第一次ウィーン包囲を実施。35年、フランスのフランソワ1世と同盟。38年、プレヴェザの海戦でカール5世のハプスブルク帝国ローマ教皇ヴェネチア連合軍を破る。これにより、地中海の制海権オスマン帝国がにぎり、フランスがアジアとの交易を独占できた。イスタンブルにスレイマンモスクを建造した。

ユグノー戦争でブルボン朝が成立

カール5世の死後、イタリア戦争が終結

  フランスでは、47年アンリ2世が即位。57年、スペインでフェリペ2世が即位すると、スペイン・イングランド連合軍がフランスへ侵攻。58年、フランスはイングランドに勝利。
 同58年、イングランドエリザベス1世女王が即位すると、フランスとイングランド・スペインは講和した。イングランドは大陸にあった唯一の領土カレーをフランスへ割譲した。

熱心なカトリック教徒 スペインのフェリペ2世

 スペイン=ハプスブルク家は、57年フェリペ2世が即位。スペインの他、オランダなどのフランドル地方、新大陸、アジアのフィリピンを相続した。

 71年、レバントの海戦でオスマン帝国海軍に勝利。74年、北アフリカチュニジアを征服。80年、ポルトガル王室が断絶するとポルトガルを併合。当時のポルトガルはアジアの香辛料貿易で荒稼ぎをしていた。

 一方、68年カルヴァン派の多いフランドル地方オランダ独立戦争が始まった。

イングランドエリザベス1世の黄金期へ

 53年、イングランド女王メアリ1世が即位。54年、メアリ1世は、スペイン皇太子フェリペ2世と結婚。イギリス国教会は弾圧され、イングランドカトリック教国に戻った。57年、フェリペ2世がスペイン国王に即位。フランスに参戦した。

 58年、エリザベス1世が即位。イギリス国教会が復活した。これによりフランスとの戦争が継続できず、59年フランスと講和。大陸のカレーをフランスに割譲した。

 68年、オランダ独立戦争が始まると77年オランダと同盟。スペインに参戦した。88年イギリス海軍は、スペインの無敵艦隊を破った。

ユグノー戦争勃発

 ユグノーとは、カルヴァン派のことである。カルヴァン派は商工業者を中心に普及した。アンリ2世は、ユグノーを弾圧。60年、シャルル9世が即位。幼い皇帝を母カトリーヌが支えた。62年、シャルル9世は、カルヴァン派を認める勅令を発する。これに対しカトリック教徒の諸侯が反発。ここにユグノー戦争が始まる。

サンバルテルミの虐殺

 68年、オランダ独立戦争がはじまる。フランス国内の宗教対立は、カルヴァン派のオランダとカトリックのスペインの対立が相まって泥沼化した。72年、パリでカルヴァン派の大虐殺がおこなれた。サンバルテルミの虐殺である。ユグノー戦争の泥沼化でフランス全土は荒廃。17世紀初頭の不況につながる。

ブルボン朝の成立でユグノー戦争が終わる

 74年、アンリ3世が即位。アンリ3世に後継者がいなかったため後継者争いが始まった。カトリック教徒のギース公アンリとユグノーブルボン家アンリである。81年、オランダ提督ウィレム1世は独立を宣言。84年、イングランドは、新大陸ヴァージニア植民地を開発。同84年、日本の遣欧使節団がスペイン国王フェリペ2世に謁見。このころ、パリはカトリック派が優勢であった。88年、フランス国王アンリ3世がカトリック側のギース公アンリを暗殺。しかし、89年、アンリ3世は熱狂的なカトリック教徒によって暗殺された。残ったブルボン家アンリがアンリ4世としてフランス国王になった。ブルボン朝の始まりである。 

ナントの王令で宗教の自由を認める。

89年、アンリ4世が即位してブルボン朝が始まる。この200年後にフランス革命が勃発する。ただ、フランス国民の大部分はカトリック教徒である。そのため、93年アンリ4世ユグノーからカトリックへ改宗した。そして、93年、アンリ4世はナントの王令を出し、ユグノーを保護した。

 

次回予告

大航海時代はどのようなものだったか
なぜ、宗教改革ができるほどローマ教皇の権威が落ちたのか

「15世紀のフランス ヴァロワ朝 百年戦争に勝利し国王の権威がたかまる」

おたのしみに

 

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このころの日本は

 

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 このころの中国は

 

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