8世紀、日本は平安時代の初期にあたる。唐王朝は、かなり衰退していた。均田農民も事実上土地の私有が認められ、貧富の差が拡大した。唐王朝の衰退によって門閥貴族が没落する一方、新興地主層が台頭した。
唐王朝は衰退傾向になった。地方は、節度使(藩鎮)が治めるようになっていた。唐王朝は、長安周辺を治める一地方政権に転落していた。当時の長安は、8世紀の安史の乱で焦土と化していた。中国最大の都市は、黄河と大運河(7世紀の隋王朝期に完成)の交点に成立した商業都市開封に移っていた。この開封はまだ、唐王朝の支配下にあった。
このころには、租調庸制は崩壊。780年の両税法に変っていた。均田農民も、貧富の差が拡大した。裕福なものは小作人を雇い農地を拡大していた。彼らは形勢戸(新興地主層、けいせいこ)とよばれ、10世紀末の宋王朝期には門閥貴族(旧地主層)に変って政治の中心を担うようになる。一方で、貧しいものは形勢戸の小作人に没落するものも多かった。
9世紀後半、塩の密売人(8世紀末に塩の専売制が導入。)の反乱がおこると全国に飛び火した。(黄巣の乱)朱全忠ら節度使の協力でようやく鎮圧できた。この際に最後で唐王朝最大の都市開封が朱全忠に譲渡された。
このころの日本は、8世紀末に平安京に遷都を行っていた。9世紀末には、唐の治安悪化を理由に遣唐使を中止した。北方異民族の世界ではウイグルがキルギスに滅亡された。このころからトルコ系軍人奴隷(マムルーク)が登場し、イスラム社会に取り込まれていく。
そのころの日本は