1970年代の中国 中華人民共和国 ニクソンショックと毛沢東の死
1970年代の中国は、内政的にも外交的にも転換期にあった。内政的には、建国の父毛沢東の死により、文化大革命が終了した。一方で、外交的には、ニクソン訪中や田中角栄の日中平和条約により、日本やアメリカなどの西側諸国の関係改善が進んだ。
中国は、66年の文化大革命以降、共産主義を強化する方向に進んでいた。しかし、76年毛沢東、周恩来がなくなると、鄧小平ら市場経済を導入しようとする修正派が復権してきた。78年には「四つの現代化」などの改革・開放路線を推進した。
ここで中華人民共和国の当時の2つの派閥について話そう。イメージを重視しているので正確さな知識は書籍等で勉強してほしい。2つの派閥を知るには、中華人民共和国が採用している共産主義についての知識が必要である。共産主義とは、すべての資産を国有化し、国民が全員公務員の社会だと思ってほしい。そのため、職業や給料は政府が決める。2つの派閥の違いは、この給料の決め方の違いである。
農業を例にとると、鄧小平ら「修正派」は、収穫高に応じて給料を決めようとスタイル。一方で文化大革命で台頭した「文革派」は収穫高とは関係なく政府の方針によく従うかどうかで給料を決めるスタイルである。一見すると「修正派」のほうがフェアなように見えるが、中国にはコメがよく取れる土地もあればそうでない土地もある。それを考慮して、収穫高を上げるために努力しているほうを評価するのが「文革派」の考え方である。
視点を外交のほうに移す。1970年ごろの世界情勢は、次のとおりである。まず、ソ連との関係は、60年代から悪化、69年には国境紛争も発生している。一方、アメリカとの関係は68年の大統領選で共和党のニクソン大統領が当選すると、ベトナム戦争は停戦した。
71年、それまで台湾の国民党政権(中華民国)を正統の中国としていた国際連合が、中華人民共和国を正式に国家承認した。72年には、アメリカのニクソン大統領、日本の田中角栄首相が訪中。73年ベトナム平和条約がパリで締結された。78年には日中平和条約が締結。79年には、アメリカとの国交を樹立した。
一方、ベトナムの隣、カンボジアでは、70年に親米右派勢力(ロン=ルノ政権)が国王を追放すると、共産主義を目指すポル=ポト派と内戦が始まる。ポル=ポト派が内戦に勝利し政権を取った。ポル=ポト派は、ベトナムを敵視し、親中政策をとった。また、共産主義を強行し、知識層を中心に大量虐殺を行った。これに対し、反ポル=ポト派勢力が成立。ベトナムとソ連はこれを支援し、再び内戦に入った。これにより79年中国はベトナムと戦争を開始した。
そのころ日本は