1980年代の中国 鄧小平 一党独裁を維持しながら市場経済を導入
76年の毛沢東、周恩来の死により、鄧小平ら経済改革を進める修正派が台頭した。
一番大きな経済改革は、「生産責任制」の導入である。中国は、日本と異なり土地は国ものである。「生産責任制」導入前は、50年代に導入された「人民公社」制度で全農家が人民公社に所属した。それに対し「生産責任制」は、一定の農産物を国におさめればそれ以上の農産物は自由に売買できる制度である。
また、外国資本と技術を積極的に受け入れてきた。日本企業も中国に進出したのもこのころである。
この結果、経済は成長したもののインフレが進み、生活は困窮した。その矛先は党幹部にむかい、天安門事件につながった。
外交では、79年からベトナムと中越戦争が続いていた。原因は、カンボジアの内戦である。当時ベトナムは、ソ連の支援する反ポルポト派の政権を支持していた。一方、中国はポルポト派を支援していた。
また、80年のモスクワオリンピックではアメリカの要請に基づきボイコット。同80年のイラン・イラク戦争では、ソ連・フランスとともに積極的にイラクを支援した。
そのころ日本は