10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1860年代のフランス 第二帝政 ナポレオン三世の失政 海外遠征の失敗と普仏戦争の敗北

1860年代のフランス

 ナポレオン三世は、国内産業支援を進める一方、対外戦争に積極的に参加した。67年に万国博覧会を開催している。
 しかし、このころになるとナポレオン三世の栄光に陰りが見え始める。メキシコ遠征に失敗。ベトナム遠征には成功しているものの以降回復にはつながらなかった。
また、英仏通商条約により、イギリスから工業品が流入。国内産業に大打撃を与えた。このころ、プロイセンでは保護貿易政策がとられイギリス工業品の流入の影響はなかった。
 1870年、普仏戦争に敗北。これによりナポレオン三世の時代(第二帝政)が終わる。

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2世紀の中国 漢王朝 漢王朝の衰退

豪族と皇帝側近の役人(宦官)、后の一族(外戚)との権力闘争はまだ続いていた。
このころ、製紙技術が発達して、それまで竹に書かれていた文書が紙で書かれるようになる。
このころベトナムにヨーロッパ(ローマ帝国)の使者が来る。
そのような中で、184年宗教反乱がおこる。(黄巾の乱)。権力闘争で疲弊した漢王朝にはこれを治める力はなく、地方の豪族の協力を得る形となった。その後、漢王朝の権力はほとんどなくなり、地方豪族がそれぞれのエリアを支配する日本でいう戦国時代のような状態になる。これが三国志の舞台である。
この戦乱期に、ベトナムは漢から独立した。

1870年代のフランス 第三共和制 普仏戦争とパリコミューン、露土戦争とビスマルク宰相

 日本では、明治新政府による近代化政策をすすめる1970年代。
 フランスでは、普仏戦争の敗戦で、ナポレオン三世が失脚。第三共和制が始まる。当初は、ボルドー臨時政府(産業資本家など)とパリコミューン(パリ市民)が対立。最終的には、パリコミューンは武力で鎮圧される。
 70年代後半、露土戦争でロシアがオスマン帝国に勝利する。バルカン半島をめぐって、三帝同盟のロシアとオーストリアが対立。ドイツ帝国ビスマルク宰相は、ベルリン会議を開催。血を流さずにこれをおさめた。

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3世紀の中国 魏晋南北朝時代 三国志の時代、曹操が作った政治システム

3世紀は、三国志の時代である。劉備関羽諸葛亮孔明が活躍したのがこの時代である。しかし、世界史的に重要なのは、曹操の画期的政策である。九品中正は6世紀聖徳太子の官位十二階につながる。
なお、この時代に邪馬台国卑弥呼魏王朝に使いを送っている。

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1880年代のフランス 第三共和制 ベトナムとアルジェリアを中心に植民地拡大をすすめる。

日本では、明治政府が国会が開設に尽力していた1880年代。
フランスは、70年代の不況をうけて、植民地拡大を進めていた。アジアでは、清王朝に勝利し、ベトナムを植民地化。アフリカでは、エジプトでの影響力を失い、アルジェリアを拠点に進めていくことになる。
当時のヨーロッパは、ドイツのビスマルク外交によって平和が保たれていて、安心して植民地拡大を進めることができた。

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4世紀の中国 魏晋南北朝の戦乱期 北は北方騎馬民族の短命王朝が続き、南朝では、晋王朝に多くの門閥貴族が避難

晋の統一で再び平和が訪れると思われた中国は、後継者争いで再び戦乱の世に戻った。
華北では、五胡(ごこ)と呼ばれる異民族が交代で王朝を作った。
一方で、江南では、晋王朝が遷都。多くの門閥貴族が避難した。
このような戦乱期であったため、この時代の日本の情報が乏しい。そのため、3世紀の邪馬台国と5世紀以降のヤマト政権の関係が謎になっている。なお、この時期、多くの古墳が作られた。

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1890年代のフランス 第三共和政 ドレフュス事件とアジアアフリカの植民地化。

 1880年代からはじまった植民地獲得競争は、90年代に入るとドイツが本格参戦を始めた。そのような中、フランスは、アフリカではアルジェリアを、アジアではベトナムを拠点に進められた。アフリカでは、アフリカ横断政策をすすめる。アジアでは、清王朝日清戦争に敗北。中国分割が始まった。
 そのような中、フランス政治では、ドレフュス事件で世論を失っていた。

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