10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

コラム 世界史の勉強法(なぜこのブログを始めたのか)

おはようございます!sekaishiotakuです。

いよいよ来週は、幕末に入っていきます。
ただ、このブログは幕末だとか、戦国時代とか人気のある場面だとしても特段深入りするわけではないので期待をしないでください。

いつもは、平日の朝しかアップしないですが、番外編としてアップします。

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1820年代の日本 ドイツ人医学者シーボルトが見た日本

 1820年代の徳川幕府の日本は、徳川家斉の親政のもと。化政文化と好景気を享受していた。
 このころ、ドイツ人医学者シーボルトが来日。当時のドイツは統一的な王朝はなく、ナポレオン戦争で成立したプロイセンを中心とするプロイセン関税同盟とのちにハプスブルク家オーストリア帝国に分かれていた。ちょうど産業革命が始まったころで、第九(交響曲第九番)で有名なベートーヴェンが活躍したのもこの時代のオーストリアである。
 一方で、医学者シーボルトは大きな事件を引き起こす。日本を出国する際に徳川幕府は、1810年代に完成した伊能忠敬の日本地図を持ち出そうとした。フェートン号事件や相次ぐ外国船来航もあり、徳川幕府は、外国船は見つけ次第、砲撃せよのとのお触れを出す。(異国船打払令)これが1830年代に大きな事件を引き起こす。

 

 いよいよ、来週は、激動の幕末明治に入ります。お楽しみに

1810年代の日本 家斉バブルとナポレオン戦争の終結

 1810年代の徳川幕府の日本は、徳川家斉の親政のもと化政文化と好景気を享受していた。そのころ日本海で商船がロシア人にとらえられる事件が発生。当時のロシアは、アレクサンドル1世のもとナポレオン戦争の真っ最中であった。
 15年にナポレオン戦争終結し、ヨーロッパに平和が訪れる。このころになると汽車が登場。産業革命により、経済力が出始める。世界初の産業革命を遂行したイギリスは、ナポレオン戦争の講和会議で、オランダからケープタウンスリランカなどのアジア・アフリカの拠点を領有。インド交易の中心は、オランダからイギリスに移った。
 このころ、伊能忠敬が日本地図を完成させ、杉田玄白がオランダの医学書の翻訳に成功した。

1800年代の日本 家斉バブルに沸く江戸とナポレオン戦争の裏でイギリスが暴れる長崎

 江戸時代の日本は、緊縮財政の松平定信が引退し、11代将軍家斉の親政が始まる。松平定信時代には制約されていた商業活動が自由になり、景気は良くなり、歌舞伎や浮世絵などに代表される江戸を中心とした町人文化(化政文化)が花開く
 このころ、北海道(蝦夷地)の地図作成が始まる。リーダーは伊能忠敬である。樺太島が発見されたのもこの時である。一方でロシアもオホーツク海まで進出していた。当時のロシア皇帝はのちに対ナポレオン戦争で名をあげるアレクサンドル1世で、イランのカジャール朝やトルコのオスマン帝国と断続的に戦争を行っていた。
 一方でナポレオン戦争でオランダが一時的にフランスの支配下にはいると、イギリスは長崎でフェートン号事件を起こす。当時の長崎奉行だった長崎県の隣、いまの佐賀県肥前)にあった鍋島藩は、責任を取り藩主が切腹。この反省をもとに富国強兵を進める。日本で最初に産業革命を行ったのは鍋島藩といっても過言ではなく、日本初の大砲を作ったのも鍋島藩である。当時のイギリスは、本国では、フランスのナポレオンと戦い、一方で南半球のオーストラリアの植民地化を進めていた。18世紀~始まったイギリスの産業革命は、交通の分野まで進出した。蒸気船が登場したのがこの時代である。

18世紀の日本 江戸時代後期 異国船対応と財政難に対応する江戸幕府

 18世紀は、5代将軍徳川綱吉~11代将軍家斉の時代である。
 犬将軍こと第5代将軍綱吉の時代には、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入り事件が起こる。生類憐みの令がだされたのもこの時代で、財政政策では、財政難を乗り切るため、貨幣の乱発を行い、インフレが起きた。そのため、景気が良くなり、また、奥の細道で有名な松尾芭蕉などで代表される京都・大阪を中心とした元禄文化が始まった。また、朱子学を重んじ、湯島聖堂がたてられたのもこのころでる。また、この時期富士山が噴火した。これ以降現在(2018年)まで噴火していない。
 その後を継いだ新井白石は、今度は物価高を抑えるため金融引き締めを行い、物価は安定したが、不況になり元禄文化は衰退した。
 1716年、7代で徳川家康の直系が途絶え、親戚の紀州徳川家和歌山県)から徳川吉宗が即位する。財政的にも軍事的にも危機下にある中、吉宗は、享保の改革という財政改革を行った。また、海外情勢を仕入れるため洋書輸入の禁を緩和した。ここから医療分野を中心に蘭学が始まる。幕府と同じように地方の大名も財政難であり、諸藩は各地で藩政改革を行っていた。
 吉宗の後、田沼意次が老中になると、商工業からの税収を狙って、商業振興をすすめた。
 寛政の大飢饉で田沼意次が失脚すると、松平定信寛政の改革を行う。財政改革である。その結果、田沼時代に回復した景気は再びしぼんでいった。
 このころになると、ロシア船が開国を求めて頻繁に日本を訪れるようになる。

 

 明日の19世紀からは10年単位で進めていきます。

 

17世紀の日本 江戸時代初期~中期 独立戦争中のオランダと手を組む徳川家康

 17世紀~1868年までが江戸時代である。17世紀は、初代徳川家康~5代徳川綱吉の時代である。


 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、江戸幕府を開いた。
 江戸幕府は、地方は統治を大名にまかせ、税金も大名に納付させる事実上独立国のような状況となっていた。江戸幕府は、江戸のほか、長崎や堺などの大都市や佐渡などの鉱山などを直轄領からの税収によって成り立っていた。
 徳川家康の時代は、朱印船貿易で東南アジア各国と盛んに交易をおこなった。このころスペインと独立戦争を行っているオランダとそれを支援するイギリスが日本を訪れており、家康はこれを味方につけた。このころ、九州南端の薩摩藩(島津家)が琉球を征服。琉球は、薩摩と交易をしながら明王朝朝貢を続けた。姫路城が完成したのもこの時代である。しかし、当時の江戸は今の東京と違って、片田舎の湿地帯であった。そのため、全国の大名に命令して、江戸城の建設や、江戸の治水工事をやらせ江戸の基盤を作った。
 3代将軍徳川家光の時代に、九州でキリスト教徒の農民や失業した武士が反乱を起こす。(島原の乱)。これを鎮圧すると、ポルトガルの来航を禁止した。鎖国。当時アナボイア事件でイギリスは東アジア交易から撤退し、東アジアとヨーロッパの交易はオランダが独占するようになる。また、家光の時代に大名行列のルールを整備した。その影響で多くの地方武士が東京に住むようになり、現在の東京の基盤となった。
 17世紀のヨーロッパは、16世紀の大航海時代による好景気が終わり、寒冷化による不作が続いていた。また、ドイツ三十年戦争などの戦乱が各地で起こっていた。その影響で魔女狩りが行われていた。一方、アジアはトルコのオスマン帝国、インドのムガル帝国の全盛期である。17世紀の後半から衰退期に入る。中国では、明王朝が衰退し、かわりに女真族清王朝が成立した。
 3代将軍家光がなくなるころになると、戦国時代のような刀で決める政治(武断政治)から、法で治める政治(文治政治)への移行が政治テーマになる。
 17世紀末、犬を大事にしたことで有名な第5代徳川綱吉が将軍になる。
 このころになると、アジアの大国、トルコのオスマン帝国やインドのムガル帝国が衰退期に向かう。一方で、17世紀に成立した清王朝は、康熙帝が即位し、黄金期に入る。一方で、中国の北にはロシア帝国が進出していた。